最初のセミナー(日本語)

The 1st Leslie’s Seminar

(Translated by Miho)

日期:2003.04.30
地點:香港浸會大學逸夫校園永隆銀行商學大樓WLB203
主辦:香港浸會大學《拉闊文化計劃》

主持…..盧偉力(大學教授)
張國榮的音樂世界…..朱耀偉(大學教授)、余少華(大學教授)
張國榮的性別易服…..洛楓(大學教授)
現實生活與光影裡的張國榮…..林紀陶(電影編劇及影評人)
燃燒自己/實現自我…..文潔華(大學教授)、吳昊(大學教授)、羅貴祥(大學教授)、盧偉力(大學教授)

序言

追憶 ある世代の記憶の中の重要人物。

廬偉力:

本日の会は特別なものです。会では我々と同時に成長してきたような、また我々の成長過程において、また世代としての記憶の中で重要な人物を追悼しようとしています。

張國榮の生活はどういったものであったか?何故一ヶ月前に命を絶ってしまったのか?こういった問題は、或いは十分に理解できないかも知れません。しかし我々は彼が追究を続け、香港に生まれ、香港から光を放ってきた人物である事を知っております。テレビでも音楽でも、そして映画でも、彼には独特のスタイルがありました。彼のスタイル、個性というものは、我々の世代では完全に掘り起こす事は出来ないでしょう。– 10年、20年或いはさらに長い時間を費やし、彼が我々世代の香港文化、また活力といったものを代表していたと理解する事でしょう。

今回本校(香港パブティスト大学)の《拉闊文化計画》では、彼のために荘重な会を計画いたしました。今夜は本校の教授も多く参加し、また他校よりの来賓も迎えることが出来て、嬉しく思っております。

紹介させていただきますと、香港中文大学音楽科の余少華教授。同校の洛楓、その他劇作家で評論家で、張國榮とも交流のあった林紀陶氏。本校の教授としまして朱耀偉教授、文潔華教授、呉昊教授、及び羅貴祥教授。そして私は廬偉力です。

寄意流星。

廬偉力:

本日は皆様に一種の特別な生命感といったものを感じられて、嬉しく思います。本講義の後に「寄意流星」と題した時間を設けます。この時間は皆様に張國榮に対してまたその他想いを語っていただき、遠くにいる”彼”に届けようという趣向です。では先ず初めに余少華、朱耀偉両教授に、張國榮の音楽方面の功績と実践をうかがいましょう。

張國榮的音樂世界

個人の魅力が曲のヒットを生んだ。

朱耀偉:

廬博士、このように張國榮氏に対する見方を分かち合う機会を与えてくださり、ありがとうございます。私は流行歌を研究しており、よって彼の曲も多く見てきました。私にとり張國榮は成長過程の代表であり、まだ気持ちが整理できません。80年代流行文化の終結を象徴しているように感じます。流行文化は、工業、生産、複製の産物であると言われますが、80年代の流行文化は商業的であっても、声、品格、色香といったものも備えていたと思います。90年代に入るとこういった素晴らしさが損なわれ、張國榮のみが今になって思うと聲、色、芸全てを備えていたと感じます。他の人は歌が上手くても、あまり美しくなかったり。きれいでも舞台は今ひとつであったりなのです。

私は歌詞を研究してきました。早期の歌詞には見るべきものは余りありません。しかし彼の歌のスタイルは多様でした。短調形式の《有誰共鳴》日本的な《少女心事》《藍色憂鬱》など。歌詞を研究するものにとって、これは矛盾なのですが《少女心事》など、今でも何を言いたいのか良く分かりません。しかし大ヒットし、作詞に新風をふきこみました。また例えば《藍色憂鬱》は非常に日本的な書き方で、流行歌詞に大きな影響を与えました。しかしもし張國榮が歌ったのではなければ、この歌はこれほどヒットする事はなかったと思います。《無心睡眠》に至っては「救命浮き輪のように口をあけて」などとよく分りませんが、張國榮の魅力によってこれらの歌がヒットしました。80年代の歌は非常に多様で様々なスタイルが見られますが、彼が様々な人と組む事によって新たなスタイルが生れました。

業界に新たな息吹を吹き込む。

朱耀偉:

90年代は張國榮が自分の特性を最も活かした時代でした。後に林夕氏と組みました。よくご存知の《左右手》《同道中人》などは本来メジャーにはなりにくい曲でしょう。しかし彼のような大物歌手がこういった歌を歌うようになったのです。80年代にも同性愛を感じさせる曲はありましたが《左右手》のようにヒットとはなりませんでした。この曲に本当に同性愛的な意味があるかはさておき、この様な曲がメジャーになれば、希望と励ましになります。またこういった歌がなければ《再見 ローズマリー》等の歌も容易に受け入れられる事はなかったでしょう。彼の後期の作品には、こういったものが多数見られます。作品に新鮮な内容、新しい声を取り入れたのです。同意されるかは分りませんが、彼は他と違い、思い切ったことをやる歌手でした。

ある文化の終結の象徴。

朱耀偉:

90年代の文化は私に言わせれば、どの人も余り差がありません。四大天王のように。彼らは声も色気も備えていますが、生命感を感じるほどではありません。張國榮のように商業化されても何かメッセージを伝えるようでもありません。張國榮の演唱會は、先程おっしゃられたように文化があり、メッセージがあり、色彩に溢れます。しかし90年代の歌手には感じられません。友人が次のように言ったのが良く分かります。「張國榮の逝去は我々にとって、特に80年代青年だったものにとって一種の文化の終結である。聲、色、芸を生かしヒットを創造している。90年代の歌手は計算され尽くしているか、親類縁者が資金を出したもので、商品化されている。張國榮のように色彩豊かな存在はない。」彼が林夕氏と組んで残した作品はどれも傑作です。先ほど取り上げた《左右手》やそして《夢到内河》など、露骨な描写がありながら、上品に歌い上げるのは誰にでも出来る事ではありません。

人を感動させる人物。

余少華:

私はここにいて良いのでしょうか。彼の歌はよく知りません。93年に香港に戻り、文化研究を始めてから少し知りました。音楽文学の授業では彼の作品を良く取り上げました。彼が去ってしまい、深い喪失感を覚えています。なんと言っても張國榮は香港文化史上の重要人物です。私はもともと保守的で胡弓をひき、国貨公司で左寄りのものを読むといった風で、流行文化にも疎かったのです。彼を意識しだしたのは78、79年頃でした。楽団で胡弓を引いていた時「山河歳月」というシリーズの為に伴奏をしたのです。張國榮は主役でした。流行歌が主題歌でした。彼が義母を愛してしまう旧家の息子を演じていた、坊ちゃん坊ちゃんした風貌を覚えています。しかし印象深かったのは、私の父の様子です。父が夜な夜なテレビを見ているので何を見ているのか尋ねたところ「張國榮はとってもハンサムだ。」と言ったのです。私は若い頃自分もハンサムだと思っていましたから、どうして彼なんかを見けりゃならないんだと思ったのを覚えています。その後アメリカに十年滞在しました。香港が非常に恋しく、毎週土曜日は中華街に香港映画を見に行ったものです。そして当時張國榮は人気絶頂でした。中華街の観客は王家衛を好かず《欲望の翼》など始めの10分で既に不満の声が上がっていました。しかし私は彼の不良少年めいた、香港のジェームス・ディーンとも言うべき演技を堪能しました。また《覇王別姫》《ルージュ》なども見ましたが、ボストンから見た香港はとても恋しく、彼が演じるものに深い印象を受けました。

香港で文化研究に携わるようになり、二度会う機会がありましたが、話したことはありません。一度は白雪仙(粤劇の明星)の受賞祝賀会でした。彼はとても嬉しそうで、お行儀よく仙姐の側に座って《剣合釵縁》を歌っていたのが印象に残っています。もう一度は小思先生が彼を中文大学の「映像と文学」討論会に招待した時でした。彼が何を質問されたかは覚えていませんが、的を得て、また教養ある受け答え、和やかに談笑しながら自信もあり…後にこういうことになろうとは、夢にも思いませんでした。彼には自信があるとそのとき強く感じたのです。彼は香港の誇りだと思いました。

音楽の話に戻りますと、アップテンポの曲で彼のリズムのセンスは抜群です。彼は優れたダンサーであり、ロックンロールなどでもタイミングを完全に掴んでいます。天性のエンターテイナーです。イギリス帰りで、中国よりも西洋を良く知った香港のエンターテイナーです。そうです、彼はエンターテイナーであり、明星、歌手といった単純な存在ではないのです。

中国文化を理解しようと努力。

余少華:

私は中国音楽の歴史と音楽文学を教えています。張國榮は西洋派ですが、どういう関係があるのでしょうか?中文大学でのディスカッションで「中国で《覇王別姫》に出演し、また《ルージュ》等の文化と関連ある映画に出演した事は、自分自身にどういう影響を与えたか?」と尋ねました。彼は非常に率直に「自分が中国人だと再認識した。中国文化は非常に偉大だ。中国の人々も純粋だし、この経験は自分自身を変えた。」と答えました。彼は非常に誠実でした。彼は典型的な中国文化を良く知らない香港人です。私も含めて、香港、中国を離れてから、遠くから祖国を眺める事になった。この過程は他の人とも共通します。

また彼は中国の文化を理解しようと大変熱心でした。例えば《ルージュ》の南音(南方方言の曲)は、アニタ・ムイの方が上手でした。しかし彼は南音と粤曲を真剣に学び、それにつれて流行歌の発音もさらにはっきりし、素晴らしく改善されたのです。彼が歌った南音は完全に流行歌の歌い方でしたが、そこがまた良かったのかもしれません。南音らし過ぎると香港の若者には受けないでしょうし、流行歌と南音の間で歌ったからこそ、より多くの人に受け入れられたのでしょう。近頃彼と汪明?(リサ・ウォン)が《香夭》を歌った番組が放送されましたが、張國榮の歌は非常な進歩で、汪姐の数十倍良かったです。本当に。

第二の例は《覇王別姫》です。これは彼が歌ったのではなく、プロの京劇役者が歌ったものですが、彼は京劇としぐさを本当に努力して身につけました。《遊園驚夢》《牡丹亭》を演じるのは容易ではありません。しぐさ、手や腰の動き、目、ただ「みえ」については、伝統的な戯曲をやる人の「みえ」とは違っていましたが、それ以外は最大限の努力をして、北方の文化を学んでいたと思います。なかなか出来ないことです。この例からも張國榮が香港人として、新たに中国を理解するのに全力を傾け、自分の演技の中に中国伝統の要素を取り込んでいたことが分るでしょう。

張國榮的性別易服

行家一出便知有没有 一手振るえば、技量が分かる。

廬偉力:

演技や歌に関わる方はご存知でしょうが、一手を見ればその人がどれだけの技量を持つか分かるものです。演芸に携わるものは「行家一出便知有没有-一手振るえば、技量が分かる」といいます。一言聞けば、その人の力量が分かるのです。先ほど《覇王別姫》のしぐさを見ましたが、ここから彼がどれだけ努力して、この優雅な姿を演じたか分かります。彼の映画には、こういった例が多く見られます。

張國榮の表現にはもう一つ特徴的ものがあります。ご存知だと思いますが、これは彼の人生において重要な過程であり、彼の性向でもあったわけです。彼は自身の性向に気付いた時、勇敢に表現しようとしました。これは映画、形象上で興味深い問題です。そして映画または演唱會における彼の服装も興味深い課題です。時に女性の服をまとい、時には変わったものを着て、性別と服装、この問題については洛楓さんが深く研究されています。

性別は表現的でありえる。

洛楓:

まず初めに、哥哥の舞台衣装についてお話したいと思います。時間があれば個人的に彼とあったこともお話します。MTVを2篇取り上げたいと思います。1篇は97年ハイヒールを履いた《紅》もう1篇は《大熱》で、2001年Passion Tourでの造型です。時間も限られていますので、雌雄同体を中心にお話しします。いわゆる雌雄同体とは性別の研究上では、両性の間の相互干渉を指します。文化表現の上では男性と女性が社会にそれと認められる符号が交わってしまう、また打破されるという事です。張國榮は香港、そして華人社会の中でただ一人、意図的に雌雄同体の演出をし、そして成功を収めた人物でしょう。

彼の表現世界では性別が入り混じり、跨り、入れ替わり、新たに生れ出る。

洛楓:

まずMTVの分析が容易になるように、概念をお話しましょう。伝統的に男女には定められた服装があります。性別も衣服のように換えられます。なぜなら色や縫製など、着ている服で性別が分かるからです。例えば女性がスカートをはき、男性がスーツを着るものならば、哥哥は衣服の符号を乱したことになります。彼は舞台でスカートをはき、女性衣料に使われる素材の服を仕立てました。こうした事で両性をまとう事が出来ます。この写真の衣服は全て性別を隠すようなもので、全て女性服です。もし知らなければ男性とは分からないでしょう。これを易服(異性の服装をする事)と呼びます。先ほどの《覇王別姫》の服装も易服です。女形の服装です。しかし雌雄同体でも本来の性別は依然として存在します。例えばPassion TourまたMTVの中で、男性が女性の領域に入り込んでいる、またその逆を見ることがあります。衣服による性別の符号はどの様に使われているでしょう?服装には様々な造型があります。先ほど申し上げた《覇王別姫》や《ブエノスアイレス》では造型は全て易服によります。
>もう一種内面は男性だが外面は女装などという場合。さらに部分的なものがあります。《紅》演唱會の衣装は男性的か中性的なもので、彼の声も身体も男性ですが、ハイヒールのみが女性を示しました。

この《紅》演唱會映像は非常によく編集されています。アクセサリーを多用し、ダイヤのエンゲージリング、身体、表情など、クロースアップを利用して演出されています。まず足が見え、踊っている男女をカメラが上半身までなめていくと、なんと二人とも男性である。張國榮と朱永龍のダンスはゲイ的なものも連想させます。コンサートではこの曲は6-7分間にも及び、2分間の前奏で哥哥は着替えました。黒服のダンサーたちが雰囲気を作り、彼を待ちます。この場面において朱永龍の造型は重要です。哥哥は黒珠に輝く身体の線をあらわにする衣装で、紅いハイヒールを履いています。一方朱永龍は上半身を露わにし、長い皮のブーツを履き、一目で男性と分かる造型です。二人のダンスは男性同士のある関係を表現していますが、哥哥の表情、アップになった目、動作は全て誘惑的なものです。この演出は雌雄同体の易服だけでなく、内に物語を秘めて重要です。MTVではまず交差する足を見せ、下半身のみを写し、そしてハイヒールを履いた男性の足を見せます。男女のようで、そう哥哥
>は明らかに女性の役を演じています。カメラが上半身を映し出し、二人の男性が踊っているのが分かり、ゲイ的なものが連想されます。この歌詞は林夕作詞ですが、先ほどもおっしゃられたように、林夕の歌詞は哥哥の歌に決定的な影響を与えました。多くの歌手は自身のイメージや歌詞、歌なども事務所に任せています。実力のある歌手のみが製作や選曲に参加できます。マーケティングの問題に関して、哥哥はそういった力をももっていました。

MTVの中で哥哥は口紅を濃く引き、中性的な衣装で自らの身体をなでます。これは一部の心理学者が言うように男性の身体への肯定で、場面が切り替わると男性の身体に戻るといった意味ではありません。私が言いたいのは、衣服は性別を表すものという事で、最後に彼はハイヒールをぬぎ、男性の靴をはきます。しかし観客へのお辞儀は非常に女性的です。男性の表現が柔らかく優雅で、男性女性の区別が入り混じり、跨り、入替わりそして新たに創造されているのです。

彼は新たな年代に我々をいざなった。男性の陰性柔美を定義しなおした。

洛楓:

次のMTVは《大熱》です。これは大変複雑なもので、ストーリー性があります。この歌は皆さんもよく知っておられるでしょう。Passion Tourの造型で、髪は長く、何度も着替えをしますが、衣服は論点ではありません。中には女性の服装や、ピンクのものもありますが重要なのはエデンの園の物語を用いている事です。話には男らしい男の子と女の子、そして女っぽい男性が出てきます。そしてシンボルを多用しています。蛇そして禁じられた果物。リンゴは出てきませんがブドウで蛇の誘惑を表しています。また非常に短いシーンですが、哥哥が紙の人型をもっているのに気付かれましたか?エデンの園の物語は、人類の第一歩です。つまるところ性別とはどうやって決められたのか?聖書によると神はアダムを創った後、アダムの肋骨を用いてイブを創ったとか。この時性別とはどういう状態であったのか!またさらにシンボルとして白いハトが出てきます。哥哥は捕まえていますが、その後放します。これは性別解放の意識と動作といえるでしょう。鏡を置いたシーンは、これは張國榮の様々な側面を映しており、性別性向は多様で、どう解釈するか、どう見るか、どう捕らえるかの問題であるという意味です。またMTVに意識的に聖書の故事を取り入れることで、性別意識が強調されています。蛇やブドウまた人型、服装など細部にまでこった編集です。また意識的に中性的な俳優を選び、男女の性別を打ち破り曖昧にしようとしています。哥哥の造型や服装もまた雌雄同体です。

張國榮は生涯において発展及び変化の段階を経てきたと思います。そして舞台に復帰した後、特にここ数年、我々を新たな陰柔の年代にいざない、男性の陰性柔美とは何かを定義しなおしたと思います。これは彼の最大の貢献ですが、現在のところ彼の後を継げる人材はおりません。

彼らは生きているが、実際には死んでいる。彼らは死んでいるが、実際には依然生きている。

廬偉力:

洛楓さん、ありがとうございました。張國榮という現象、これは明らかに文化の表現です。突出した文化表現に対し、私たちは外部から眺めるしか出来ません。またオープニングで述べたように、張國榮が一生をかけて追究したもの、そしてこだわり続けたものを理解するのには、さらに時間が必要でしょう。時間を経てやっと我々は彼を完全に理解できるのです。「彼らは生きているが、実際には死んでいる。彼らは死んでいるが、実際には依然生きている。」彼にはこう詠んだ詩が良く当てはまると思います。

張國榮を見飽きる事はありません。彼の功績も偉大で、絶え間なく新たに現れる生命力、特に彼の真摯な姿勢などを私たちは目の当たりにしてきました。彼が去ったあと、特にファンではなかった私自身もなぜか、自分の一部を失ったような気がしています。本当に何故だか分かりませんが、人生の中で輝ける生命に出会っていたのかもしれません。彼の聲も姿も、脳裏に甦ってきます。また彼の逝去を惜しむのと同時に、自分の一部も失われた気がします。先ほどこれは80年代文化の終結の象徴だとおっしゃいましたが、その他に失われつつあるものも象徴しているように感じます。今日の会では、ゲストの方々、教授、受講されている皆さんも、張國榮に対する思いをお持ちの事でしょう。後に時間を設けますので、自らの言葉で彼に対する思いを語ってください。

現實生活與光影裡的張國榮

尺度では測れない人。映画界の損失。

林紀陶:

廬博士、感動的なオープニングをありがとうございます。私は劇作家として、評論家として映画を愛しております。張國榮は私の創作人生において、重要な位置を占めています。例えば私の処女作《チャイニーズゴーストストーリー2》は彼が演じたものですし、93年《キラーウルフ》では金馬奨を受賞できました。昨年はまた別の物語で組もうと話していました。物語のアイデアは張國榮自身が出したもので、台本も出来ていました。これは彼の精神世界から出来た話で、映画という形で彼のマスコミや、芸能界、現実の生活についての見方を表現しようというものでした。残念ながらこの映画はもう、製作されることはありません。また予定されていた監督も、俳優も、彼以外の人を主役にして撮影する事はありえないと考えています。この映画のアイデアも彼自身のものだからです。

台本の縁で知り合った哥哥のことを、皆さんと分かち合いたいと思います。まず断わっておきたいのは、皆さんがご存知の張國榮はイメージ上の張國榮で、現実の彼ではないということです。映画業に携わるものとして現場で見たのは、彼の一部でしかなく、全部ではありえません。そして現実の張國榮の空間はイメージ上の張國榮よりさらに大きいのです。だから4月1日彼が去った事は、映画界にとって甚大な損失です。私はあの日上海でこのニュースを聞きました。上海の友人たち、中国の映画業界人にとっても信じられない出来事でした。みな彼の事が忘れられなかったのです。イメージであれ現実であれ、一緒に仕事をしたことのある友人、食事をしたことのある友人、リュウ・イエ、陳凱歌その他沢山の友人たち皆信じられないと思い、ふさぎ込みました。これだけでも哥哥が映画界に残した傷が大きいと分かるでしょう!我々が知っている張國榮は生き生きと、一般の尺度では測れない人でした。例えば1ドルで《流星》に出演するとか。

仕事に対する真摯な姿勢。

林紀陶:

新人の多くが張國榮に感激していました。彼は自分の出番がなくとも現場にいて、新人とコミュニケーションしていました。例えば《カルマ》で私はちょうど10月にカリーナ・ラムにインタビューしましたが、彼女も哥哥が常に現場にいてくれるので、彼の存在を感じながら演技できると感激していました。これもなかなかないことです。特に天王級の大物ともなれば、時間の関係または他の理由でそうはしないのですが、哥哥はいつもそうしていました。

お話したいことは沢山あるのですが、時間の関係も有りますし、今日は一緒に仕事した時の話にします。第一回目は《チャイニーズゴースト2人間道》でした。実は《チャイニーズゴースト2》の撮影を開始した時、主役は張國榮ではなかったのです。《人間道》のストーリーを覚えていらっしゃるでしょうか。主役の寧采臣が第二集では主役が二人増えています。周亜炳と諸葛臥龍です。どうして3人になったか。実は物語は周亜炳が大師 諸葛臥龍に間違えられているというもので、第二集には寧采臣は出ず、周亜炳の新しい話となるはずでした。周には梁家輝が扮する予定でしたが、一部撮影して停止、半年後にまた撮るといった具合で、予算もかさんできました。しかしスポンサーは寧采臣、聶小倩、燕赤霞を出せといい、人物を再び変更することになりました。この仕事についたばかりの私は、《人間道》の台本を周亜炳と諸葛臥龍を寧采臣にしなければならず、これは非常に複雑でした。人物がそれぞれ二面性をもつようになってしまうのです。ジョイ・ウォンの魏青楓は聶小倩となり、燕赤霞の出番は多くなく、張学友が演じる事になりました。しかし張國榮の役は三面もある人物になってしまいます。香港で台本を書くことの大変さを痛感しました。ハリウッドより大変です。役柄より俳優が優先するからです。どの人が演じるかによって、書き換えなくてはなりません。初めての台本で梁家輝の役を張國榮の役に書き換えるのですから、これはもう大変でした。俳優が先行のため、その人のイメージを劇中に盛り込まなければなりません。特に哥哥の三面性をもつ役柄は大きな挑戦でした。さらに当時私は彼を全く知らず、そう好きでもなかったのです。しかし彼の役を書かなければならない。彼を納得させる為に工夫を凝らしました。

私は多くの俳優と話をしてきましたが、香港の俳優はあまり態度がいいとはいえません。脚本について話しているとき、彼らは心此処にあらずといった雰囲気なのです。一般的な話で全てがそうではありませんし、もちろん哥哥は違いました。彼は監督であれ俳優であれ、話をよく聞いて、聞いた後に返事を返してくれるのです。とても細やかに、どうして自分がこのようにするのかを話してくれます。作家としてはこのように真面目な俳優に驚かされます。準備しすぎという事がありません。役柄についても詳細に聞いてきます。感心したのが彼は自分の役以外にも敏感で、多分知られていないでしょうが、文句を言ってみたりもするのです。例えば役柄について好きになれないことを全て言い立て、その後に「Sorry!」というのです。彼はかんしゃくもちだけど、格好はつけない人だと思いました。彼はきっと「勿論さ。これはボクが演じるんだから、自分で嫌なやつなんて思いたくないよ!」と言うでしょう。

撮影現場の小王子。

林紀陶:

撮影現場での彼をみたら、カメラの前と後ろでは全く別人だと感じたでしょう。カメラの前ではひ弱な書生でも大剣士でも、現場での彼は小王子、かわいらしい王子でした。何故かといいますと、彼はなんだか特別で、それでいながら腕白で、皆と平等に楽しんで、皆彼に惹かれてしまうのです。彼がアイドルだから惹かれるのではなく、本当に楽しめる。安心して遊べるんです。出演していない時の張國榮はこの様に全く別人でした。でもここが可愛いところなのです。彼は自分が二つの空間で生きていることをよく理解していました。1つは映像というイメージの空間。もう1つは自分の真実の空間です。彼は真実の空間がさらけ出される事を嫌っていたと思います。そして知られている彼の真実の空間も、非常に少ないでしょう。

第二回目は《キラーウルフ》でした。この映画では私たちは洋画を撮るようなつもりでした。監督はロニー・ユーという黄色い肌の西洋人。中国の王朝や武術については何にも知りません。しかし《キラーウルフ》を撮りたいと思っている。レイモンド・ウォンがこの話をしたとき、ユーの印象に残ったのはブリジット・リンが花嫁衣裳を着て江湖を去り、一夜で白髪になる部分でした。かれは花嫁衣裳の娘が、高い山の上で白髪を振り乱していれば、西洋人はきっと彼女はどうしたの?と聞くだろう。そこで西洋人にも分かる武侠映画を撮ろうと思った。私も哥哥とブリジットが主役と聞き、西洋人受けすると直感しました。そして彼に言ったのです「今回の役は、誰もやった事のないものだ。古装劇のジェームス・ディーン。」彼は「うん。何が言いたいか分かるよ。」私は「これは中国版の、ロミオとジュリエットなんだ。」彼は「うん、つかめたと思う。」「それにブルーソルジャーを加えて、蒙古はインディアン。中原は白人だ。」結果この作品はヨーロッパ科幻展で最優秀賞を取りました。作中では哥哥とブリジットの役は、哥哥の方が彼女より柔弱で、男女が入替わったようです。また身体がつながった両性人も出てきて、性別の混乱にも触れ、江湖を騒がせています。

哥哥の脚本、愛が人をつなげる鍵。

林紀陶:

最後に哥哥が撮りたかったアイデアです。これは愛が人をつなげる鍵だ。愛にはレッテルは不要。同性愛とか異性愛とか。恋をして、男でも女でも徹底的に愛した時には、性別など関係なくなる。この役は張國榮でなければ演じられないでしょう。また彼がいてこそ撮影可能です。《紫酔金迷》という映画に印象深いせりふが出てきます。「芸に生きるものは、娯楽界で生きるものは、自分という作品を作るために自分の真実を犠牲にしなくてはならないときがある。最後にはこの作品が本人の真実をあやつり、最後には真実の自己がなくなってしまう。残されるのは作品だけだが、作品は永遠に人々の心に生き続ける。」エンターテイナーは犠牲者なのかもしれません。

燃燒自己/實現自我

西欧、中国の文化に通じた、香港植民地の精緻な作品。

文潔華:

廬博士と同じく、私もあの日以来、自分の一部を失った様に感じます。非常に強く、そう思うのです。私もファンではありませんでした。しかしあの事件以降、私と思いを同じくしている人は多いのです。友人は言いました。「張國榮のCDは一枚しか持っていないけど、あの事件以来気が晴れない。」彼は冷静な、社会学の博士になろうかという人物です。どうしてこのように憂鬱なのか。香港の状況の為だけではないでしょう。あの頃はSARSの話で持ちきりでした。天気のせいでもないでしょう。廬博士と同様に、何かを見直したり、ばかげた事ですが、如何に生きていくかも考えなければならないような、本当に不思議です。私は彼と親しかった訳でもなく、しかし何故彼の逝去がこのように印象深く、憂鬱にするのでしょう。彼と同年代で、一緒に成長してきたからでしょうか。現在亞州電視で《甜甜廿四味》を再放送していますが、彼が13歳で香港を離れ、イギリスに留学し、77年にコンテストで入賞して芸能界に入った事を思い出しました。私はというと、77年に恋をして、79年に張國榮が亜視に入った頃仕事を始めました。80年代には全く違う道を歩んでいましたが、よく似たパターンの挑戦をしてきたのです。同じ申年のためか年月の関係か、90年に彼はカナダに移住し、私も同時期にカナダに移住しました。彼がバンクーバーにいる時期、私もバンクーバーにいたのです。そして彼は人がどう言おうと、舞台に復帰しました。

張國榮はある部分を我々と共有してきました。彼は香港という植民地の作品です。精巧な作品です。西洋、中華文化に通じ、英語の曲をもよく知っていました。かつて陳小寶が言った事があります。「Don Mac Leanが好きだから、彼のCDはVirgin Snowと名づけるか。」英語曲も上手かったので、他の歌手が英語で歌わないでくれと言ったほどでした。また映画にも詳しく、フランソワ・トリュフォーの作品が好きでした。京劇も学び、中西文化の真髄を知っていたでしょう。また良く香港人には深みがないと言っていました。《君さえいれば》のエリック・ツァンの役は、ゲイを茶化し醜くすると批判的でした。Passion Tourのスカートと長髪が翌日の新聞にけなされたのも、納得できず、香港に対して言いたい事は沢山あったと思います。そして世界で評価される事を大変喜んだ。これも彼の努力の結果です。

私の彼の印象は、年を重ねたとしても、やはり永遠の少年です。私は《欲望の翼》が彼の独演映画のようで最も好きです。列車で撃たれた後アンディ・ラウがいいます。「そんな生き方をして、面倒な事になって、見ているほうまで疲れるよ!」旭仔は「こんな生き方しか出来ないんだ。もし俺が今死んだら、きっと俺をうらやむだろう。」そのときの表情が、まるでどれほどの代価を払っても名を残すという、自分の選択を知っているようです。そして彼の人生に猥雑さ、下品さというものは見出せません。ファンサイトで失望や怒りを感じても、下品さ、醜さは見出せません。撮影中彼はロケ弁当を食べなかったといいます。身体の為だけではなく、そのような生活の質を嫌がったのです。外地でも5つ星ホテルを選びました。林氏がおっしゃったように、彼は皆が可愛がり、振り回される王子でした。もう1つのニックネームどおり、皆の「阿仔」だったのです。

彼のインタビューを振り返ると、どうして自分が”良い”時に評価されないか。野次をとばされるのか分らなかったようです。よく帽子を舞台下に投げたら、投げ返された。これが最も辛かった事だといっていました。しかし何故あの年最も人気だったのはアラン・タムで、自分ではなかったのか。一週間ほどしか父母と暮らせる時間がなかったのか。多くの事が納得できなかったと思います。自分が全力でやっているのに、結果を得られない時は、よく「どうしてこうなんだ!」と驚き、うろたえるような顔をしました。蔡楓華が「この輝きは永遠には続かない」と言った時も同様でした。納得できない時、意固地になるところもあったと思います。完璧に演技する為に、役を完全に理解して撮影に臨んでいました。また毎日違う役をやらせる王家衛は詐欺師だ。「彼は人がいいから、付き合ってあげてるけど。」と言っています。率直な人だったのでしょう。

張國榮は強烈な矛盾の中に生きていました。林夕氏編集の記念本に出ていますが、彼は奨、栄光、芸術とそれを楽しむ生活を、自由自在に選び取っていました。しかし一つを選んだ時、他の一つも気にしていました。アーティストとして、彼の魅力は矛盾の中にあったと言えるでしょう。これは香港人の矛盾でもあります。香港で生まれ育ったの香港人として「非常に自信を持っているが、同時に脆弱」なのです。彼は判断能力に自信があり、才能に恵まれ、才能とは何かを知っていました。彼には「自分が成し遂げられる事」が必要でしたが、同時に他人からも認められたかったのです。受賞も含めて。

これはおもしろいと思ったのですが、ある人が80歳まで演じ続けますか?と聞いたところ、「やらない。ずっと俳優で父親や叔父さんの役はやりたくない。ある日突然長い休暇を取って、20年間休み、また突然姿を現したい。同じようにかっこよくて、特別で、良い感じの年配の俳優…」しかし残念ながら別の決定をしてしまいました。そして我々は永遠に一人の青年を惜しむ事でしょう。廬博士がおっしゃるように、彼についての解釈は、歴史と共に進行するでしょう。

ワンシーンで内心の二重人格を表現できる。

(廬博士によると、昊氏があの日以降、哥哥の映画を系統的に整理しているとのこと)

呉昊:

哥哥は常に丁寧に台本を読み込む俳優でした。自分の部分だけを読む人もいますが、哥哥は相手のせりふ間違いまで指摘できたといいます。相手のせりふまで読み込んでいたのです。このような真面目な人が成功しないなら、天に見る目がないとしか言いようがありません。

ほんとに抜きん出た俳優でした。作品を整理する中で、彼の演技と心情には段階があると気付きました。《流星》はターニングポイントであったでしょう。あの年哥哥は40歳で、今後いかに生きていくか、アイドルであり続けるかと考え事もあったでしょう。《流星》ではとても純粋な役です。アジア経済危機以前の超一流投資顧問が全てを失い、子供を育てる事になり、弁当配達に甘んじて気楽に生きていく。素晴らしい作品だと思います。後期の作品はどれも非常に上手く演じられていますが、往々にして不評でした。洛楓さんが言うように、内心の矛盾を抱え、それが干渉しあい、せめぎあい、彼の役には少なくとも二種類の要素が混じり、擦れ合っています。この摩擦が張國榮映画の魅力でしょう。内心の緊張、矛盾、衝撃、そういったものを表現するのは、いかに苦労な事であったか。芸術であれ現実であれ、非常に辛い事です。《流星》では一切を投げ捨てるべきかを考えています。しかしそんなに簡単な事でしょうか。否です。《ダブル・タップ》では異常な状態の役です。そして《カルマ》に至っては!この作品の演技は最高です。内心の二重人格を表すのに、光や化粧も必要とせず、服装も変えていません。ワンシーンで二人の人間になれるのです。これこそ「無相又百面相」至高に至った演技の極致です…惜しい事に、彼は去ってしまいました…

(会場で《カルマ》の放映。林氏が哥哥の目が映画的な演技をしている。小さな画面で見るのは惜しいと指摘。)

完璧を求める人間が、不完全な世界で生きるということ。

廬偉力:

《カルマ》を見まして、芸術が極地に達した状態で、究めてしまった後、次にはどんな演技が出来たでしょうか。彼はもう次の作品でも越える事は出来ないと感じたのかもしれません。この気持ちは良く分ります。完全完美を追い求めた人にとって、それを達成してしまった後はどうするでしょう。もしくはこのために、撮影後に情緒問題を抱えたのかもしれません。存在主義では「哲学の最重要問題は自殺」と言います。「完全完美を追究し、十全十美の生命を目指す者が、この世界が不完全不完美だと知っていれば、どうしてその不完全な世界で生きてゆけるか?ゆえに必ず自殺に直面する!しかし自殺するには類まれな勇気をふるい、完美に向って進まなければならない。だから多くの人は、不完全な世界で生き続ける。完全でなくても、生存の空間は与えられる。完全を追及する者が、この世界が不完全だとよく分っているとしたら、如何にして生きてゆけばいいか?」自殺は存在主義哲学の最高問題です。

《カルマ》の演技が既に「無相又百面相」の域に達し、あるシーンを編集なしに顔の表情だけで内心の変化を表現する。彼はその時の速さにも注意していたと思います。前段階の精神状態から瞬時に別の状態に移すには、内心にその準備が必要です。これは演技の突破です。心理変化の自然な速さ、張國榮はもうこういったレベルに達していたのです。

脚本を超える演技。

呉昊:

《追憶の上海》のワンシーンで、妻が?を逃がす為に飛降りるシーンがあります。彼はこの情景をロシア小説の一説に重ねて叙述します。「太陽が昇った 一羽の鷹が飛翔し突然空中で留まった。あたかもそこで凝固したかのように」或いは彼はこういった感覚が好きだったのかもしれません。刹那こそが永遠という。そしてこのシーンは実際に演じられてしまいました。張國榮はひどい脚本にも出演してきました。《追憶の上海》もですが、彼の演技は脚本を超えています。ゆえに脚本がひどかろうと恐れることはなく、私はそんな彼の演技を評価するのです。

張國榮に同調できない。

羅貴祥:

多分講演者の中で、私が一番不適当でしょう。この「追憶張國榮」に参加して良いかも分かりません!彼の逝去に対しての想いは分りますが、同調は出来ません。私は《男たちの挽歌》をみて周潤發と狄龍の方に親しみを感じましたし《欲望の翼》では、アンディ・ラウやトニー・レオンのほうがいいと思いました。《ブエノスアイレス》に至っては、トニーの役の方が良いです。しゃれてるといえなくても実際的です。張國榮の映画についても、そういいとは思いませんでした。80年代の映画については「笑わせて、まあ面白い。芸術作品を見たければ國際映画祭や、アートセンターに行く。こういった作品の方が得られるものが多い、という認識です。

今日は張國榮について色々知りましたが、彼はイメージだと思います。彼自身が実際に存在するか、人としているかではなくそのイメージ。もしくは興味がなかったために、そういったものに注意を払っていないだけかもしれませんが。追憶張國榮、これは彼自身にではなく彼が代表するイメージ、彼の世代が抱える問題、また失われてしまった、懐かしむべきものに対してだと思います。

自らを素材に、芸術を創造した。

廬偉力:

張國榮はその生涯で、自分の生命という素材を使って、芸術を追究しました。その凄まじいまでの美しさは彼の芸術創造の成果でしょう。しかし自身の生命も燃やし尽くしてしまったのです。彼がもし若い時に正規の演技訓練を受けていれば、別のやり方で役に入り、生命を削る事はなかったかもしれません。感傷的になりますが、彼は”質”を追求し、自分の感情で演じる事が最も”真”だと知っていました。しかし芸術の中での感情は再現できても、もし生命を失ってしまえば、どうして更なる芸術が創造できるでしょうか?本当に惜しいです。そして悲しいです。彼の芸術に対する勇気に倣い、追憶を通じて、失われた年代に向きあっていきましょう。