The 2nd Leslie’s Seminar
(Translated by Miho)
日期:2003.09.12
地點:香港九龍灣國際展貿中心演講廳
主辦:哥哥香港網站
主持…..文潔華(大學教授)
姣、靚、型、寸:張國榮的舞台藝術…..洛楓(大學教授)
張國榮的音樂世界…..許愿(音樂創作人)
張國榮電影中的幾種角色模型…..鳳毛(影視評論人)
張國榮的浮生六劫…..林超榮(全面創作人)
始めに
哥哥の過去を回想するだけでなく、彼の未来へ発展させる。
文潔華:
司会者として、本日語られる事は哥哥こと張國榮氏を愛する朋友みなが語りたいことだと信じております。ゆえに自分の意見だけでなく、HPやその他の記事も引用したいと思います。その内容が他所で言われている事よりも、真摯だと感じるからです。本日お招きした、研究者、ゲストのみなさんは哥哥の芸能界における業績を研究されており、その分析をお話いただきます。短い時間ですが、真摯に考え、そして記念する時間を持ちたいと思います。
本日の活動は、非常に大切なものです。我々はよく「傳記」という言葉を使いますが、これはある人の生前の貢献と業績を言うだけでなく、我々がかの人を発見し続け、記念し、想い、そしてその精神を発展させていくことだと考えます。この意味において、私は張國榮が我々と共に呼吸し、繫がっていると感じます。本日の活動は哥哥の過去を振り返るだけでなく、彼の未来を発展させていくものでもあります。そしてそれが彼についてであり、我々についてでもあるのです。
哥哥を記念する文章をたくさん読みましたが、気持ちが伝わってきて、どの文も模範教材に出来そうなくらいです。作者の方々は普段はあまり書いたりしない方だと思いますが、その真摯な想いから名文が生まれています。興味深いのは本来芸術というのは”情”が先立つものですが、この”情”が哥哥の生涯、仕事で顕著に現れていることです。
まず中国のHP上のメッセージをご紹介します。この方の見方は、多くの方の意見を集約しているでしょう。”香港人(この方は香港人ではありませんので)は、張國榮の逝去について違った感慨をもっている。彼らは張國榮をよく知り、彼の成長、成熟、彼の負けも勝ちも見た。スクリーンで彼の悲喜を見てきた。奨を取って嬉しそうな様子、恋をしたり、活き活きと話したり。香港人は彼のどんな姿も良く知っている。26年来香港人は彼の一挙一動を見てきた。新聞に、テレビに映画に彼は出演し、自分のある一面を見せてきた。香港コロシアムで120回以上もコンサートを開き、毎回14,000名もの観客が共に歌い踊った。舞台上でなくても、ホテルや市中、中環(セントラル)であれ、銅鑼湾(コーズウェイベイ)であれ、湾仔(ワンチャイ)であれ、旺角(モンコック)であれ、彼を見かければ、人は挨拶し、写真をとり、サインをねだった。彼は香港人の生活の一部になっていた”この観察は全て正しいと思います。哥哥が去った後、多くの人が書き込みをし、4月1日以降に哥哥の業績と地位を認識し、初めて彼の情報を検索しました。特に海外の朋友はそうです。多くの人がどうして以前に彼を知らなかったのか、非常に残念だと書いています。どうして以前に彼を知らなかったのか、彼を理解しなかったのか。なぜ彼という人はここまで”すばらしく、魅力的”なのか。どうして以前は全く彼に関心がなく、存在はするが不在のように扱っていたのか。実は私も同様でした。香港人として、もちろん私は哥哥をよく知っています。しかし生前には本当の意味で接触する機会はありませんでした。彼の芸術、音楽との出会いが遅すぎたのが残念でなりません。彼についての文章を読み、発見した事が多いのです。
では第一番目のゲストをご紹介します。哥哥と接触する機会を持ち、その芸術を研究されてきた洛楓女史です。香港文化研究をされています。「姣・靚・型・寸:張國榮の舞台芸術」と言うタイトルですが、これは哥哥の言葉です。
“姣・靚・型・寸” 張國榮の舞台芸術
哥哥:俳優とは雌雄同体で、千変万化な存在
洛楓:
私はまず哥哥の言葉を紹介し、続いて彼の舞台芸術について話したいと思います。
哥哥はかつて俳優は男でも女でも、”姣・靚・型・寸”でありえてはじめて成功だと述べました。皆さん自身はこのうちどのくらい出来ますか?哥哥は100%やっています。(訳者注 姣=嬌に通じる。靚=美しい、ハンサム 型=かっこいい、スタイリッシュ 寸=自信家、自信過剰)2002年《明報周刊》のインタビューで重要な事を言っています。「俳優とは雌雄同体で、千変万化な存在だと思う…大変残念な事に、香港市場には一つのスタイルしかない。これはボクからすれば良い事じゃない。」哥哥のいう雌雄同体の演出は重要な概念であり、彼の舞台芸術において見られるものです。これについては後で話しましょう。
その他には《Times Magazine》と《South China Morning Post》での発言が挙げられます。2001年Timesで、「自分はバイセクシュアルに近い。《風と共に去りぬ》のLeslie Howardが好きで、Leslieという名前の中性的な響きが気に入ってこの名前にした。」またSouth China…では、「イメージを売るよりも、僕らしく」と述べています。彼は私生活でも舞台空間でも映画空間でも、誠実に彼自身でありました。また80年代はアイドルである為に、自分の志向や好きなものを追う事が出来なかった。しかし現在はもう開き直り、いつでもLeslieという役でいられる。映画でも、舞台でも音楽でも。そしてこの心理状態は、90年代の彼の演技に影響し、さらに発展しています。演技も初期とは非常に異なってきています。
香港文化の性別空間を開拓した
洛楓:
哥哥は世俗の言う男女の境界をこえ、第三、第四更に多くの可能性を持った性別空間を開示し、雌雄同体の両面の特性を結合して、”男性の剛に柔あり、柔に剛あり”を実現しました。彼の最大の成果は男性の陰柔の特性の発見でしょう。伝統的には男性は雄雄しく勇壮でなくてはなりませんが、陰・柔をもちあのように多様に情を演じ、男性の別の一面を啓発したと言えます。演技の上で彼は男女という範疇を超えて、新たな性別の形態を作りました。つまり男性でも影・柔で、嬌でありえる。ある時は舞台空間で、ある時は映画の役柄として、ある時は日常生活で表現していたのです。かつて自慢げに語っていた事があります。「ボクは紅色の服がもっとも映える男なんだよ」と。伝統的には紅は女性の色と見なされがちですが、先ほどの映像でも彼は紅色のコートを着ていましたし(《カルマ》の日本ファンの集いをさす)彼のような趣が出せる人も他にいません。彼は世俗の制限や禁忌を打破ったのです。男性はしてはいけない、できないと言う事をすべてやり、しかも美しくやってのけたのです。
このような表現・行動・芸術形式は香港社会、異性愛を中心とし、同性愛を禁忌・問題視し、偏見のある社会にとっては、学校・家庭・教育・メディアで取りざたされる問題であり、哥哥にとっては圧力となりました。しかし彼はその圧力の中でもわが道を行ったのです。《我》の歌にあるようにI am what I am 自分はこうなのだと。90年代復帰後は、勇敢に立ち向かい、そして香港流行文化の大変重要な性別空間を切り拓いたのです。これが彼の最大の貢献であり、生涯の業績です。
華人史上、哥哥の業績は梅蘭芳に劣らない
洛楓:
哥哥の皮のコートにも「姣・靚・型・寸」が感じられます。皮は高雅な女性や上流社会、その服飾を代表します。しかし彼は同様に着用し、優雅であったのです。私の意見では哥哥は香港・中国大陸・台湾その他華人社会を含め、流行文化史上初の創造者です。中国芸能史上においては梅蘭芳に劣るものではありません。梅蘭芳の京劇における業績は疑いがありませんが、哥哥も流行文化・音楽・舞台・映画において、前人未到の突破をなしとげています。羅文とは違います。彼も嬌態は出来ましたが、かっこよく、美しく、自信を持ってかは意見の分かれるところでしょう。香港の流行音楽史において羅文は重要です。香港の発展、文化史において羅文の功績は否定しませんが、張國榮の歩みの方が大きく、特に世界で影響力をもつ中国語映画における功績は大きいでしょう。映画で様々な役を演じ、特にジェンダーの入り混じる表現は、現在のところ他に出来る人はおりません。
雌雄同体の演出
洛楓:
次に雌雄同体の演出です。これは《ブエノスアイレス》での造型ですが、実際にはカットされています。哥哥は俳優とは千変万化であり、雌雄同体であるべきだといいました。雌雄同体とは一人の人間が男女両性の特質を具え、その特性が同時に出現また相互に補い合うという意味です。この概念を早くに提唱したのが、イギリスの小説家バージニア・ウルフでした。彼女は男性と女性の特質について述べ、双方の特質を一人で兼ね備え、結合してこそ更なる創造性、力量を発揮でき、また完璧な美であると述べています。彼女が言ったのは小説についてです。張國榮の芸術表現、雌雄同体の演出は、ある役において、いかに違った面を表現していくか。つまり人が陰陽柔剛を兼ね備え、或いは双方が浸透し合い、第三の様相を発現するものです。男性がいかにして女性の媚態を表現するか、女性がいかにして男性の剛毅を表現するか。彼は《ルージュ》《覇王別姫》《ブエノスアイレス》などで、完璧に雌雄同体の特性を表現しています。
ここで舞台上の雌雄同体表現として、2本取上げます。まずは《Passion Tour》です。この舞台衣装は香港マスコミの批判の的でしたが、海外では高く評価されました。香港マスコミの程度の低さ、いわゆるファッションデザイナーについての無知が見て取れます。哥哥がこの概念をいかに扱ったか、フランスのデザイナーとの合作の様子に注目しましょう。別の一本は《怨男》のMTVです。衣服の交換で性別も換えられる事を示しています。身分転換の物語です。
Passion Tourの芸術理念
洛楓:
まずPassion Tourの映像ですが、フランスの著名デザイナーJean Paul Gaultierに衣装を依頼でき、哥哥の面目躍如です。演唱會というのは舞台、劇場、ファッション、物語、音楽、演出の複合的な舞台芸術です。Gaultierはフランスファッション史に残る、実力あるデザイナーです。まずGaultierと6枚の衣装のポイントについてお話したほうが分りやすいでしょう。長髪スカートに対する批判にも反論できます。
Gaultierは男女の服装符号を”Mix&Match”させた事で有名です。これを行ったのは彼が初めてでしょう。またフォーマルとストリートファッションの結合も試みています。70年代の女性主義また同性愛運動の影響も受け、マドンナのコンサート衣装は彼の代表作です。90年代には、”Fatal Man” ”Pretty Boy”などのシリーズを出しています。この特徴は全てPassion Tourのデザインと重なります。その時期のファッションをもう一度開拓、表現したといえます。あのスカート型ズボンは、85年コレクションよりですし、最後のビロードのコートも96-97年コレクションからです。この写真からは男性なのか女性なのかを見分けられません。Gaultierは新たなスタイルを作り出しました。文化的にみると、衣服はその人の性別や社会階級や年齢等を告げるものであるはずです。雌雄同体の手法では、男女別の衣装が混合し、西洋衣服においてはあり難いことです。女性が男性の服を着たことはあります。しかし逆は社会がそれを許さず難しいのです。しかしGaultierは大胆にも男性にスカートをはかせる事で、性別を超え、アクセサリー、長い髪などで既成概念を崩し、更にその人の新たな一面を発掘したのです。
Passion Tourの物語は、天使が堕落し悪魔に変わるというものでした。登場の白い羽毛の衣装は真っ白な天使です。純粋・純潔を表します。第二は美少年で、GaultierのPretty Boyのデザインです。第一日目はスカートでしたが、暴露写真がとられたあと、ズボン型スカートに変わりました。第三はラテン情人で、セクシーでエロティックで、人をひきつけ、または惹き付けられているようです。天使が堕落し、美少年となり、人を魅惑する恋人となる。そして最後には悪魔になります。額にも悪魔の符号を書き、魔力を発するようです。
香港の演唱會史上で、このようなストーリーを演じきった人はいないでしょう。服装を利用し、ある成長物語を演じています。舞台上にドリームランドを作り上げました。哥哥が「姣・靚・型・寸」であること、男女の衣服の境界を取り払った事。身体は男性で、声も、そしてひげも生やしていますが、衣服によって陰柔を表しています。彼は「女性を真似しているんじゃない。男性の身体でも、衣服をもってすれば、このようにできる事を示している」のです。
香港マスコミは芸術作品に対して無知
洛楓:
Leslieはイギリスでテキスタイルを学んでいました。また彼の父は、有名なテーラーです。ここから見るに、哥哥はファッションに敏感であったでしょう。Gaultierが今まで如何なるデザインをしてきたか、またGaultierも哥哥が前人未到の事に挑戦しようとしていると良く分かっていたでしょう。哥哥は普段から良く勉強し、異なった文化を吸収していました。いかに性別を超えるかも良く理解していたと思います。私は香港のマスコミの哥哥批判に憤りを感じました。彼らの無知は、社会研究の良い反面教師だと思います。
熱情演唱會は日本、カナダなどの海外ツアーでは、高く評価されました。私は外国人と一緒に見ましたが、面白かったのは彼らが広東語を理解しないにも関わらず、視覚効果で非常に喜んでいた事です。日本は別にしても、香港でもこう感じた人はいたでしょう。日本では舞台上で性別の境界を越えることには、歴史があります。
香港ではマスコミがこの高度な芸術を理解しなかったのが、非常に残念です。哥哥は身体を武器として衣服を開示し、性別は男女、時代、地域、歴史と文化を越えられるというGaultierの雌雄同体デザインの最高境界を表現しました。性別で縛り付けていたものを取り払い、世俗の概念を無視し、新たな空間を切り拓き、新たな性別を表現し、タブーの多い社会を啓発したのです。
《怨男》MTVでの衣装交換と性別解放
洛楓:
最後に《怨男》のMTVについてです。このMTVは非常に興味深いです。ご覧になられた方もこの物語の空間をも超越した開放性を楽しまれたと思います。様々な職業の男たちが昼間の服装を脱ぎ捨て、自分の好きな衣装に身を包む。アクセサリーをつけ化粧をして夜の街に繰り出す。哥哥は非常に挑発的で、また「姣・靚・型・寸」を全て体現しています。彼の服装、輝く化粧、香水などなどで性別が夜になり解放されていることが分るでしょう。
またこのMTVにはもう一つ重要な概念が盛込まれています。男性も愛情に飢え、愛されたいと望むということです。哥哥は”Leslieとしてより自分らしく。あるイメージを売るのではなく”と言っています。彼は気にかけて欲しかった。愛は彼にとって多過ぎる事はなかったのです。曲中では男性が捨てられ、愛に飢え、孤独です。どうやって楽しく出来るでしょうか。
MTV中では、衣服と性別が強く意識されています。社会的には男性にはタブーとされているような服も登場するので女人型など批判し、その性向や心理、家庭問題を取り上げる人もいるでしょう。しかしバージニア・ウルフがいったように、性別は服装のように取り替えられるのです。97年演唱會を思い出してください。哥哥はハイヒールを履きましたが、最後に革靴に履き替えました。これは性別も取り替えられると言いたかったのです。朝服を着ても、何らかの理由で違う物を選ぶかもしれない。それがアイデンティティー。気持ちが外面にも現れる。MTVでは職業を表す服装で社会制度の束縛を示し、その束縛から解放されれば、好きなように装える。自分らしくできるということを強調しています。これがこのMTVの要点であり、震撼させるものです。
またさらに男性の身体に対する肯定もポイントです。現在は女性の身体をのぞき見ることが多いですが、近年男性の身体にも同様のことが言えます。MTVに現れるのは肯定された裸体です。哥哥とダンサーが着替えをする。胸が露わな者、刺青をしている者、挑戦的です。またウインクは可愛らしく、心を奪われます。男性が自分の身体を賞賛しているのが分ります。哥哥はよくやりますね。
スタンリー・クワンの作品の中で、哥哥は自分がナルシストだと言います。鏡の中の自分に恋していると。《欲望の翼》にもこういったシーンがありますが、男性が美しさを求め、服を着替える、または化粧をする必要があるというのは、一種の快感でありえます。どうして男性は美を追求してはいけないのか。おおっぴらに美しさを求めてはいけないのか、これは社会にとって重要な問いかけです。
MTVで哥哥は、意識的にでしょうが、Sexualな象徴を上手く演じています。別の読み方もありありますが昼間とは違う場所、多分ナイトクラブ、または寂しい男性が集まる場所で、彼らはダンサーとして小遣い稼ぎをしているのかもしれません。お金を数えるシーンがでてきます。男性は禁忌とされている事が出来る。夜の空間は完全に開放され、男性の身体も別のスタイルになる。夜は開放された空間となる。男性に必要なものを表現しています。
哥哥が苦労の末に切り拓いた多元性別文化空間を受け継ぎ、発展させる
洛楓:
最後に哥哥は伝説になったと思います。現在のところ、私見では彼の後継者はいません。彼の舞台及び映画での開拓が受け継がれて欲しいものです。哥哥は様々な経験を経て、90年代復帰してからは自分の理想が分っていました。その選択、志向は社会の圧力や禁忌に触れましたが、更に遠くへ、人よりも更に遠く行こうとしたのです。哥哥の非常な努力のおかげで、性別が多元化した香港文化が生れました。この空間が香港の芸能人、メディアによって大切にされ、受け継がれていく事を望みます。哥哥の業績を発展させていくべきです。この業績は、得がたいものなのですから。
張國榮の音楽世界
この会は昨年の今日行うべきでした。
文潔華:
洛楓さん、ユニークな見解をありがとうございました。
哥哥は別れの歌も多く歌ってきました。代表的なものは本当に別れのとき、89年香港コロシアムで。皆彼が歌わなくなるということで悲しんだのです。14年が過ぎ、あのときの観客はまだおりますが、彼と本当に別れるということで辛いです。ネット上で読んだのですが、彼の歌の特徴は、その感情移入にある。アップテンポの曲はかっこよく、バラード、ラブソングは優しく、全てが心の底から訴えかけるようです。彼が去ってしまったあと、テレビ局が再三警告しています。一人で哥哥の曲を聴いてはいけない。感染力が強いから、取り乱したり、鬱病になる危険性がある。彼より声がいい人もいるでしょう。しかし彼のように濃く・深く感情を投入できる歌手はいません。今日は香港の音楽人を第二のゲストに迎えています。哥哥とも一緒に仕事をしたことのある許愿氏です。
許愿:
この会が今年の彼の誕生日に行われ、しかし彼はいない。非常に残念です。昨年の今日であっても、彼の業績は舞台・映画・音楽上で全て尊敬に値したでしょう。彼は後輩に道を示し、私も彼から多くのものを学びました。これは人の或いは社会の問題なのでしょうか。有る時には大切にする事を知りませんが、失ってから研究し追憶しようとするのです。しかし彼が今日いたとしたら、喜んだと思います。彼は自分の仕事と創造に誇りを持っていましたから。彼は我々が今日彼の業績を追憶し、比類なき尊敬の念を抱いていると知っており、喜んでいると確信します。
人気が出るまで
許愿:
私は好朋友というほどではありませんでしたが、彼と三度仕事をした事があります。
1985年私はミス香港のダンス演出担当でした。彼はスターだと思いました。舞台上で熱を放つ明星、スター歌手で、あの自信がなければ、なにか足りないように感じるような。「姣・靚・型・寸」のうち「靚」以外は歌手の良い評価とはならないようですが、Leslieはデビューしたての頃この壁にぶち当たっていました。
Leslieがデビューした頃楽壇をリードしていたのが、サミュエル・ホイと羅文でした。Leslieは二人の影響を受けています。《American Pie》で亜視と契約した時、すでに楽壇で生きていこうと考えていたようですが、チャンスがありませんでした。彼と話したのを覚えています。ある番組でLeslieの”Seasons in the Sun” MTVを見て良かったのでそういうと、彼は「そんなの撮ってない」といいました。「たくさん撮ったから忘れたんだろう」というと、「君がアルツハイマーなんじゃないか?」と笑ったのです。彼は私たちの前では非常に楽観的で、楽しそうで、冗談言って笑わせ、大きな子供のようでした。しかし彼をよく知る人はそのダークサイドも知っていたでしょう。歌手としてスタートし、彼のダークサイドは魅力の一因でもありました。しかし彼の憂鬱感はなかなか受け入れられませんでした。Leslieのイメージは、挫折など味わった事のないようなお金持ちの坊ちゃん。彼の苦労を知る人は多くありませんでした。又彼は個性的でありすぎ、なかなか人気が出なかったのです。彼が19歳くらいの時です。Leslieは麗的(所属会社)で映画にも出ていましたが、彼が音楽人ということは明白でした。
人気が出てからも苦労していました。羅文やダニー・チャンと同じマネージャーと契約したのですが上手く行かず、挙句の果てにお金まで盗られたそうです。3人の中で一番売れていないのがLeslieでした。歌手としては彼には、個性、自分と言う態度、憂鬱感がありすぎたからです。ダニーも憂鬱な面がありましたが、彼は純朴そうで受容れられ易かったのです。歌う曲を取るのもやっとで、数年後華星/TVBに移ります。ダニーと青春映画に出ても、ダニーが主役でした。Leslieにはジェームス・ディーンのような反抗的な雰囲気がありました。
哥哥:我就是我
許愿:
しかしLeslieは《風継続吹》まで諦めませんでした。意識的にか「風」が張國榮を代表しているようです。彼は本当に風のようでした。《風継続吹》より風が吹き出し《Monica》《H2O》で人気急上昇し、この風はまぐれではなく、85年巨星と言われるようになりました。
しかしここでも苦労はありました。当時はやっていた声は高音でした。また楽壇は日本の影響が色濃く、男声も明晰なのが好まれました。Leslieの高音も心地よいですが、声の最もきれいなのは中音、低音です。しかし当時は受容れられ難かった。彼は本当に天才だと思うのですが、歌を正式に習ったことはなく、好きで歌っているのに上手いのです。《風継続吹》で人気が出てきました。私が最もLeslieを尊敬するのは《我》のように、I am what I am, he is what he is, he has been what he has beenであった事です。彼は自分であり続け、自分の音楽空間を作ってきました。
初めての合作
許愿:
85年に初めて一緒に仕事をしました。その時の事です。仕事が夜中に及び、プロデューサーがスタッフにダンス室で眠るように言いました。そして「Artistであっても、同様だ」とLeslieに言ったのです。すると彼は”I’m not an artist, I’m a star .” と英語で答えました。私は仕事を始めたばかりの頃で、彼を凄いと思いました。彼のこの自信と自己肯定は、自信過剰と言う人もいるでしょう。しかしこれほど自信があるから光り輝き、本物のスターになれたのだと思います。彼はこの様に非常にかっこよかった。《欲望の翼》はこの彼の性格、雰囲気といったものを良くを捉えていると思います。
哥哥と呼ばれるようになってからもですが、昔から面倒見が良く、しかも自然で嫌味ではありませんでした。しかし嫌いなものは嫌いと、はっきりしていました。
人気がでてポリーグラムと契約し、決定権も多くなりました。ダンス曲も歌い始めました。例えば《側面》などです。自由に出来る分、彼のテイストが現れ始め、評判も良かったのです。彼は実際上手かったですし、彼一流のSexyさも出てきたと思います。個人的には”Salute”を出してくれて感謝しています。彼自分で満足できる仕事をしたくなったのでしょう。巨星の地位にあれば人の歌を歌わなくてもいいのですが、自分のやり方で歌うといいました。会社側は反対でしたが、一人の音楽人にとっては商業以外の理由で歌う事は、非常に大切でした。また新たな人と組んで歌も書き始めています。例えばサミュエル・ホイと組んだ《沉黙是金》などです。彼のやりたい音楽はどんどん広がりました。
Leslie・アラン時代は、わずらわしかったようです。当時Leslieはまさにトップの時代でしたが楽しくはなかった。楽壇は広いのに、どうして違ったスタイルの歌手が受容れられないのか納得がいきません。そしてFinal Encounter。音楽人でありたかったのでしょう。彼がマイクを封じるのを他の歌手も見守りました。
その後バンクーバーに移住し、家にも遊びにおいでと言ってくれました。向うではカラオケに行くか、粤劇の曲を歌うくらいしかなかったと言ってましたが。彼はほんとに興味深い友達です。引退の話になったときも、個人的理由からだといいました。彼はどんな事も自分で決めるのだと思いましたね。もちろん人の意見も聞くのですが、聞いて分析して、しかし決定は結局彼自身でなのです。彼を左右できる人はいません。あの年の引退、そして今年の決定。私は絶対に同意できません … 張國榮はやはり張國榮。彼自身の考えがあるのです。
不羈的風、束縛を受けないときにもっとも素晴らしい。
許愿:
彼は他人が考えたダンスでは、そこまで上手くありません。自分でやる時がもっとも美しい。一生懸命やるのですが、どうしても自分で考えた時のように上手くいかない。復帰後私は練習しなくていいよ。自由に才能を発揮してくれた時が最高!といいました。彼はつむじ風のように、束縛を受けないときに最も素晴らしいのです。歌にしても彼のアイデアが増えるほど良くなり、彼らしく発揮されました。
二度目の出会い
許愿:
二度目は《金枝玉葉》です。Leslieは《覇王別姫》を撮影し、歌手復帰を望む声は高かったのですが、彼自身は歌う理由を見つけられずにいました。ちょうど《金枝玉葉》の台本が出来、張國榮しかこの役はできないだろうとなり、私はこの機会に映画中で《今生今世》と《追》を歌わないかと持ちかけました。劇中では歌手ではありませんが、プロデューサーで作曲し、歌う必要がある。こうやって彼を騙して、実際には騙しながら、必死に愿ったのですが、歌う事になりました。そして去ってしまう半年前、Leslieはこの二曲の版権を買い戻しています。(映画版の版権と《寵愛》版の版権は別)彼はこの2曲をまた売り出そうとしていたのかもしれません。映画の中では部分しか聞けませんが、1曲全部はステレオ録音です。是がCD化されればいいのですが。感動に震えますよ。《追》を彼は三度歌いました。三度とも良いと思いました。毎回違う感じがするのです。三度とも一度歌って完了でした。歌詞の意味までしっかり理解してから録音に入る彼のような歌手との合作は、楽しいものです。声も引退前より良くなっていると感じました。《今生今世》は更に、これはアカペラで弾きながら歌います。通常こういった場合にはメトロノームを使うのですが、彼は使わずに一度目に問題なく歌いあげたのです。私はこの2曲を《金枝玉葉》のサウンド・トラックに入れるように言ったのですが、彼はまだ復帰を決めておらず、惜しい事にこの二曲は収録されていません。そしてロックレコードと契約して《寵愛》を出しましたが、この製作は非常に辛い過程でした。正式なプロデューサーはおらず、張國榮が全てをやり、彼はPerfectを目指しました。Leslieの最高の時とは、最も放たれている時。何も気にしないで良い時です。だから《金枝玉葉》版は《寵愛》版より良いです。
私は《這些年来》《紅》《Untitled》…Leslieは新たな音楽空間に踏込んでいったと思います。もうアイドルというだけではなく、風格がありました。依然として美しく、しかも更に美しく。歌も更に良くなり、声は解き放たれ、瀟洒で、彼自身にも情趣が加わりました。90年代の張國榮は香港史初のAdult Contemporary(成人抒情歌)の開拓者でしょう。
成人抒情歌の代表者
許愿:
Leslieがデビュー当時アイドル歌手だったなら、90年代の彼は成人抒情歌の代表者といえると思います。成人抒情歌は外国では盛んで、成熟したラブソングの事です。若々しくないかも知れませんが、深みがあり、10歳から3,40歳以上皆が聞いて分ります。アイドルの曲は15歳から25歳くらいのファン層でしょう。ホイットニー・ヒューストンやセリーヌ・ディオンが有名ですが、外国には多くても香港にはいません。ずっとアイドルでその後実力はと言われるようになるくらいです。張國榮は成人抒情歌を始めたと思います。
ある友達が《金枝玉枝》を気に入った、張國榮が好きだと言ってくれました。この人は《Monica》の時代にはまだ幼児でした。張國榮が舞台復帰したら若者に人気だろうと思っていましたが、同時に大人になったファンもひきつけたのです。中には《Monica》の時代は彼に興味がなくても《追》でファンになった人もいたでしょう。彼は成人抒情歌という新しい道を開拓しました。
舞台上でもLeslieは様々なことをやり、私たちに道を示してくれました。再度彼と仕事をして、私は彼のファンになりました。その音楽と人柄に惹かれたのです。それまでは歌を聞いても熱中するほどではありませんでした。《Virgin Snow》でなかなかうまくプロデュースしていると思いましたが《這些年来》で、彼のファンになりました。
三度目の仕事
許愿:
三度目の仕事は香港作曲家及び作詞家協会(CASH)の役員としてです。CASHの知名度向上と発展のために音楽大使を選ぶ事になり、私はLeslieを推薦しました。彼は喜んで引き受けてくれ、二年間大使を務めました。CASHのために”ノアの箱舟”まで作曲してくれたのです。この二年間CASHの仕事で彼と会うことも多く、色々と話も出来ました。縁だと思います。
Leslieと彼の作品を見て、いつも人生の高峰を極め、次の高峰はないだろうと思いますが、彼は絶えず最高のものを見せてくれました。クリエイターとしてCDを出し、演唱會を開き、撮影し、更なる高峰もあったと思います。しかし出演者として、気にしなければならないことも多かったのでしょう。映画を撮りたいというのも非常なストレスだったでしょう。「更に愛する」と歌いながら、実生活では辛くなっていく。これは芸能人の矛盾です。本人ではないし、外からは分りませんが。歌い、撮り、創作を続けて欲しかったですが、彼の選択でそれはなくなってしまいました。しかしこれだけはいえます。彼は常に進歩を、新しいものを求めてきた。挑戦を止めなかった。最も美麗で、最も素晴らしいもの。どんな表現方法でも最高を目指し、だからこそ最も美しい思い出を残してくれたのです。今回の様な討論会を、彼がいる時に行うべきだったと思います。
張國榮の演じた役柄の分類
生命と芸術の連環、演技それとも自己表現?
文潔華:
許愿さんはずっと想いを分かち合いたいとおっしゃっていました。専門的立場からの回顧をありがとうございました。
哥哥は映画俳優として、20年に渡り何十作品にも出演してきました。張國榮のように演技の幅が広く、極端な役柄まで出来る人は少ないでしょう。たとえて言うならば、角度によって異なる光を放つダイヤモンドです。
次に大学で教鞭をとっておられる鳳毛さんをお迎えします。(鳳毛氏に)《欲望の翼》では、彼は地を演じているだけだと言う人がいますが、これは正しい批評でしょうか?分析をお聞かせください。また彼の役柄の分類を聞かせてください。
鳳毛:
私が少しばかり知っている映画について話させていただきます。ご存知の通り、張國榮は様々な役を演じました。反抗的な青年、恋人、剣士、警官、書生、阿飛(不良少年)、英雄、賊、父親、神父、監督、風雅な若旦那などなどです。文さんがおっしゃった問題は、私も考えた事があります。張國榮は役を演じている時、自分とは違う役柄を演じているのか、それとも自己を表現しているのかと。まず作品を振り返って見ましょう。彼が演じると言うのは二層的であると思います。一つは役柄への投入。もう一つは自己表現です。
映画の役柄を通して、演技力を発揮する。
鳳毛:
彼の初期の作品はほとんど青春ラブストーリーで、際立ったものはありません。私は演技力を発揮できたのは《男たちの挽歌》からだと思います。この作品は男性的なもので、周潤發と狄龍中心で、張國榮は主役扱いではありませんでしたが、彼の役により二人の主役が際立ち、1986年ノワールブームを引き起こしたと思います。《挽歌》では張國榮はある程度嫌な役で、しかも情義上の衝突を演じています。78年から85年彼の役柄は青春ラブストーリーのハンサムばかりで、あまり良いイメージではありません。彼は演技力を必要とする映画に出演し、懸命にその力を発揮しようとしました。《挽歌》で周潤發と狄龍が人気爆発したのと共に、張國榮はひとり立ちできたと思います。その後1987年の《ルージュ》の十二少《チャイニーズ・ゴーストストーリー》の寧采臣などは人気を博しています。
《欲望の翼》の阿飛
鳳毛:
次にお話するのは、彼の演技の最高峰。また多くの人が語っている《欲望の翼》です。この作品の演技は複雑です。彼は60年代の阿飛の精神を表現すると共に、自分をも表現しているからです。
彼が鏡の前で踊る時、それは身体を開示し、自らの身体を欲望の対象として見返す作業です。張國榮の映画中の表現は自由自在です。ウイリアム・チョンが彼の為に60年代風のシャツをデザインしていますが、鏡の前でナルシスティックに立っている。この時彼はナルシスティズムの投射として自らを眺めている。しかし同時に、観客が”自分が自分を欲望の対象として見ている過程”を見ていることも知っているのです。
また《欲望の翼》のダークサイドですが、この作品には母親が不在です。養母との会話を通じて母親を求める時、”自己否定しながら、母親を求める事で自己肯定する”という矛盾した性格が伺えます。
彼は自分を演じていたのか、それとも役に没頭していたのか。張國榮が最も優れていたのは、憂鬱や、怒り、反発、自己否定、高慢な様子などを振り返ったり、目だけの、ふとした動作のみで表現できた事です。眉間に自己否定と、自己肯定が複雑に絡まりあっています。彼の目に注意してください。「理由を見つけて憎んでやる」というのは、相手を憎むのではなく自分を憎んでいるのです。これが阿飛の重要な心情です。「あんたが死なない限り」と言いますが、彼の母が死ぬのではなく、彼自身の死なのです。
三つ目に一番良く語られるのが、その放埓な態度です。作品中ではアンディ・ラウが現実的な若者を代表し、張國榮は60年代の浪漫をもった若者です。この浪漫に60年代の青年たちの放埓な様子を感じますが、これは演技でしょうか?それとも彼の自己表現でしょうか?難しいところです。《欲望の翼》は王家衛が張國榮の為に撮った様な作品です。60年代青年の再演なのか、張國榮が不良青年を演じながら自己表現しているのか、見分けるのは難しいでしょう。王家衛は長いカットで彼を撮り、こう言わせています。「人生は長くない…」自分を語っているのでしょうか?
1990年舞台復帰後、彼の表現は更に自在になりました。彼は自分を演じているのか、それとも別の役柄に没頭しているのか?《欲望の翼》では相当に複雑でしょう。もし張國榮は生涯阿飛だと言うのなら、彼の自信、自己隠滅はマスクであり、《欲望の翼》でもこのマスクをつけたままで、同時にそのマスクを外そうとしている事になります。
《楽園の瑕》では世界と自己に対する放逐
鳳毛:
次に取上げるのは《楽園の瑕》です。この作品では林超榮氏の言葉を借りれば卑しい男です。彼は結局孤独なのかそうでないのか、張國榮の憂鬱な一面を表現しています。張國榮が最も素晴らしいのは、多くの動作を必要とせず、その目で一瞬にして、そのどうしようもない、呆然とした感覚を表現できる事です。(映像を見つつ)この場面において王家衛の書いた独白は非常に重要ですが、張國榮の朗読には非常に感情がこもっていて、まるで自分の物語を語っている様です。
彼の目に注目してください。世界に向かって、また自分に対して突き放したような目です。これは彼の現実の一面なのでしょうか、それともマスクの下の、役柄の一つなのでしょうか?クローズアップの、この悲しみ憂鬱な様子を見てください。やはり演じているのでしょうか?王家衛の三作《欲望の翼》《楽園の瑕》《ブエノスアイレス》は、張國榮の真髄をとらえています。
《ブエノスアイレス》に隠された孤独
鳳毛:
続いては《ブエノスアイレス》です。この作品を彼は非常に自然に、自分の感情のように演じています。カップルが離れたりよりを戻したり、愛と恨みと、そして背後には孤独が隠されています。放蕩し、刺激を求めるという張國榮の別の一面を見ることになりますが、これは彼自身でしょうか、それとも演技でしょうか?
《覇王別姫》での投入
鳳毛:
(映像を見ながら)このシーンは非常に複雑な嫉妬です。表に出してはいけない嫉妬です。
この作品も非常に高度です。彼は虞姫に扮する程蝶衣であり、その役柄になりきっています。嫉妬しますが、伝える事は出来ません。ご存知のように《覇王別姫》の悲劇は、蝶衣が現実と舞台の区別が出来なくなっているからで、張國榮はこの演技を要求されました。表現できない嫉妬と、一途に執着する演技です。虞姫が酒に酔うシーンですが、姫が別人になり、覇王と一緒に居ると幻想し、また蝶衣が虞姫に扮しているということで、これは二重の演技です。ここでも嫉妬と希望が入り混じった演技をしています。
《ダブルタップ》の心理葛藤
鳳毛:
《ダブルタップ》では、張國榮の性格表現と人生はもう分けられません。私はここでの演技に死亡の意識を感じて、恐ろしくなりました。おそらく彼も自覚はしなかったでしょうが、はっきり出ています。銃を構えている時、彼が心配になったのです。もちろん台本通りなのですが、その表情が特別で、複雑また憂鬱で、解決しきれない問題を雄弁に語っているようでした。精神分裂、自我排斥、そういったものから抜け出せないことが伝わってきて、震えました。
自分の本質を劇中で発揮、演技と表現の混合
鳳毛:
彼の役柄には深く投入するものが多いです。あるものは監督の要求でしょうが、あるものは彼の演技と投入の混合です。これが張國榮の演技の特色と言えるでしょう。最後にイタリアの歌姫の言葉を引用します。「綺麗過ぎる人は悲しいのよ。美は心を痛めつける。美しすぎる時。」
張國榮の浮生六劫
一生が劇
文潔華:
ある人がこう言っています。張國榮がいる場には、何処であっても劇がある。長年の報道を見ても、最近でも、引退している時でも、どんな場合であれ、彼が主役でない場合、例えば結婚式やテープカットや、他の人が主催した活動、授賞式でも、彼が現れれば注目を集める。彼が主役となる。不思議な事だけれども、皆が彼を拍手で迎え、メディアもこの影響を受けている。
香港ではかつてこう言われました。”張國榮でも十年は下積みだった。”彼も辛酸を舐め、様々な事に出会ってきたのです。今日は林超榮氏が来られています。氏が張國榮について書かれたものを読みましたが、とてもユニークでした。タイトルも目を引きます。”張國榮の浮生六劫“です。特に張國榮のテレビ時代を振り返って下さいます。
テレビ時代の関門
林超榮:
張國榮は様々なメディアで輝ける存在でした。《浮生六劫》は、彼の麗的時代のテレビドラマです。ここで苦労をして、彼は大成しました。
張國榮のテレビ時代は30秒で言い尽くせます。彼はテレビ向きではなく、そこで輝く事はありませんでした。彼の才能を認めた人は多かったのですが、どうしてでしょう?これだけハンサムで、才能もあったのに?主な原因はつまり、張國榮は高貴すぎたのです。彼は貴公子と形容されましたが、テレビというメディアには庶民的なほうが合います。また彼には学歴がありました。70年代大学進学者は多くなく、彼は更に外国の大学で学んでいます。大学生というだけで、テレビ出演する芸能人になることは、嫌がられました。またイギリス帰りの大学生は、テレビ文化とは相容れませんでした。彼は大変ハンサムで、しかし少し影もあり、テレビでは役を見つけるのも難しかったのです。テレビでは聞き分けが良さそうとか、誠実であるとか、安心感があるとか、母親が子供と一緒に見たいと思うような役が好まれます。
私がどうして張國榮に注目したか。《浮生六劫》での病弱な役でです。とても可愛らしく、もう最期いう時のせりふが自然で、このように出来る人は少ないと思いました。台詞に独特のリズムがあったのです。またこういうシーンもありました。彼が姉に「僕はサルトルを読んでいるんだ」というのですが、60年代に実存主義!こういった知識人の役はできる俳優が少ないですが、またテレビ文化にも受容れられにくいでしょう。
しかし一部の監督、高学歴の映画人は彼に特別な役をやらせたがっていました。お坊さんなどです。坊主頭でもハンサムは隠しようがなく、学歴のあることも分り、別格でした。また《我家的女人》で大地主の息子を演じていますが、このように知識分子で、階層が高いイメージで、このことが禍しました。
この時代サミュエル・ホイも大学生スターでしたが、彼の若者らしい健康な様子はお茶の間にも受容れられました。アレックス・マンは邪気はあっても江湖の役が似合いました。しかし張國榮には江湖の人間の雰囲気はありません。青春ラブストーリーでも、主役にはなれませんでした。当時人気だったのは素直で、純朴な雰囲気の林国雄でした。そういう雰囲気でもなく、なかなかテレビでは発展しなかったのです。
張國榮の印象はお金持ち、学歴があり、留学経験もある。羨まれるほどハンサムで、影もあってとっつきがたい。テレビのキャスティングでは、お茶の間文化ということを考えなければなりません。家庭に入りますから、安全で健康的で、悪役でも質がよくなくてはなりません。張國榮は70年代のテレビ文化とは、相容れませんでした。
張國榮の人気は歌からです。《MONICA》はいい曲だね、《無心睡眠》もすばらしい。誰が歌っているの?ダンスもいいね、ああ張國榮というのか。こういう風に有名になったのです。そしてテレビや映画に出るようになります。しかしそれでもテレビでは上手くいきませんでした。張國榮はテレビの人ではありません。スターはあの小さな画面には入りきらず、もっと大きな舞台を欲したのです。お茶の間にもあれほどのスター、輝き、ハンサムも必要なかったのでしょう。
また張國榮の演技もテレビ向きではありませんでした。テレビでは表情によって表現するのですが、張國榮は表情は控えめで、目や台詞によって表現します。彼の演技には空間性、思考性がありますが、テレビにはそんな空間はありません。彼はテレビとは相容れず、ほんとにスーパースター、高貴で美しすぎました。美しく、学歴があり、演技に思考性があったことがテレビでは却って仇となったと思います。
映画出演初期の関門
林超榮:
テレビ出身で張國榮のような貴公子的な俳優がやる役は、なかなかありませんでした。坊ちゃんや、《ルージュ》のような読書人、そしてチープなプレイボーイ。テレビ出身が禍し、悪役が多かったのです。また馬鹿な役も多かったのですが、これで観客は彼に慣れていきました。
復帰後はリラックスしていました、悪役が多かったですが。《家有喜事》ではオカマ役を演じ、周星馳と張り合っています。演技に厚みがあり素晴らしいです。
最後の難関
林超榮:
最後の難関は、監督でした。自作自演は最も難しいです。自分という関門を越えるのは大変です。監督として哥哥は人を頼み、台本も書いていました。台本がなかなか進まない以外は進行していたのです。しかし投資者がいませんでした。不思議に思うのですが、張國榮の身価はHK$700~800万です。撮影にかかるのはHK$300~400万。500万でも出来ますから、簡単に出来たと思います。しかし彼はそうしなかった。自分で出資するのではなく、真に彼の監督としての才能に投資してくれる人を待っていた。これが最後まで解決できなかった難問だったでしょう。
私は張國榮のテレビ時代を振り返りました。再放送を見ることがあれば、彼の演技の特徴と、冷静に演じている彼に注目してください。
哥哥へのメッセージと総まとめ
哥哥へのメッセージ。或いは先ほどの話について感想など。
質問1:作曲について
許愿さん。哥哥はピアノが弾けなかったそうですが、作曲していました。どうやって作曲していたのですか?
許愿:彼は音感が非常に素晴らしく、曲の音を覚えていて口ずさみました。細かく覚えていて、ピアノを弾ける者が書き留めました。この点ほんとに天才だと思います。ギターは弾けますが、ずっと弾いていなかったようです。音感が非常に正確なため、微妙な音階までも覚えていて、書き留めてもらうことが出来ました。楽譜も読めて、自分の曲の和音部分も歌えました。
質問2:先ほどこういった会は、哥哥がいる時にすべきだったとおっしゃいましたが、生前には彼の業績はそれほど認められていなかったのでしょうか。映画については、与えられるべき奨も与えられていないように思うのですが。
林超榮:中国人は”死してその人の業績が決まる”といいます。これはいけませんね。彼はすでに影帝ですし、映画評論学会で《楽園の瑕》において受賞しています。評価もされています。生前には、彼の生涯の業績については討論されてなかったに過ぎません。
洛楓:私は金馬奨の審査をした事があります。私は審査員団、奨の意義を尊重しますが、奨の受賞を考えるなら、その年の審判が誰かと、彼らの性別に対する態度を考えに入れなくてはなりません。第38回の金馬奨の審査はあまり愉快なものではありませんでした。一部の審判がゲイの役に批判的であったからです。実際張國榮は群を抜いており、一部の開放的な審査員の票を集めました。彼は何度もノミネートされましたが、結局受賞できなかった。1票で破れた事も多かった。こういったことは運命かもしれませんが、彼は実際には奨を超えた業績を残しています。
鳳毛:私も香港電影評論学会の会員です。張國榮がノミネートされる時、競争相手の演技の方が受容れられ易いということがありました。林超榮さんは張國榮の演技は、空間を必要とし思考性があるとおっしゃいましたが、見ればすぐに分る演技の方に票が集まりやすいわけです。特に金像奨の一定の奨においては。
許愿:票が集まらないという現実は、Leslieにも影響していたと思います。90年代には80年代より冷めた見方をしていたでしょう。しかし彼はずっと人が自分を尊敬してくれる事、そして仕事を評価してくれる事を望んでいました。もし皆が集まって、彼の業績を学術的に討論していると知ったら、非常に喜ぶでしょう。友人の一人としてそう確信しています。私も”死してその人の業績が決まる”というのには反対です。彼の特徴、Leslieは難しい道を行った。もしかしたら彼の選択ではなくて、そういう運命だったのかも知れませんが。影帝や一生の栄誉など他の俳優なら容易に得られたものかもしれません。しかし彼は特別で、崇拝の対象になったのです。これは”一般的な道”を行く者にはなれないもので、彼のファンは一生彼について行くでしょう。他の歌手がさらに大きな栄誉を手にしても、崇拝対象や聖像にはなれないのです。
鳳毛:《欲望の翼》の張國榮を超えられる人はいないと思います。
観客3:私は《我家的女人》で張國榮を知りました。どうして西洋の教育を受けてきたのに、これほど民族の衣装が似合うのか不思議に思っていました。最近ビデオを見直し、彼が粤劇にも詳しかったと知りました。中西の文化を結合しています。彼の中文の歌には、英語が多いです。サミュエル・ホイの歌ではここまで英語が多くなく、張國榮をかっこいいと思っていました。
舞台上で気分を盛り上げ、観客を満足させ、楽しませてくれたのは美しい思い出です。彼はとても優雅でした。幼い頃お手伝い六姐に育ててもらったとか。六姐を母より大事に思っているとよく言っていました。粤劇も六姐の為に覚えたのかもしれません。外見は西洋化しているのに、どうして家庭をそれほど重要視するんだろうと思います。家で食事する方が好きだったとか。二面性が有りますね。
映画ではラブストーリーを良く演じていますが「アイドルとしてベットシーンはかまわないが、猥雑なのはダメ」と言っています。自然に見ていて快く、しかも自然にロマンチックに演技できる人は、今はいません。彼の演技は空間と思考性があってこそ分ると言うのに賛成します。
観客4:私は20年来のファンです。何故彼が好きか?毎回自らを突破し、前人未到のことをやってくれるからです。ファン友達と話したことがあるのですが、大熱LookとJPGの衣装はあまり好きでなくても、彼が女性に扮したのでないことは明らかです。彼の演出には両性の雰囲気がありました。新たな事をしてくれる度、私達は彼をもっと好きになります。最近の様子は私はとても良いと思ったのですが、長髪を受容れない人もいました。香港に彼のような、突破的な人はおらず、皆毎回同じような事をやっています。張國榮は完全主義者でした。人の話にも耳は傾けましたが、機嫌の悪い時はあるいは自分の意見に執着する事もあったのでは?彼のファンは毎回の突破を受容れてあげるべきだと思います。自分が好きなものだけでなくて、それはずっと以前のものかもしれません。彼が新しい事をやったら、受容れてあげるべきだったと思います。
洛楓:実際には長髪Lookは《楽園の瑕》でも見ているのですが、時代劇だと男性の長髪も問題なく受容れられるのですね。張國榮は多面的な人でした。きっとファンも自分と同様多面的で、一緒に進歩し変化してくれるように期待していたと思います。
観客5:ずっと疑問に思っていたのですが、よく”彼はこのシーンを地で演じている”と言います。俳優が自分に戻って地で演じるというのは、どういう意味を持つのでしょう?けなす意味、もしくは誉めているのだとしても、その意味は何でしょう?その意義は我々が彼をこれほど好きだということをどのように反映しているのでしょうか?
鳳毛:先ほども申し上げたように、演技には二種類あります。一種はあなたは00ではないから、 00のように演じると言う事。そして地で演じる事。私は張國榮は、両方を混ぜて演じていたと思います。彼は自分の地で演じただけではありません。自分が自分を演じても、何も意味はありません。私は彼は一定程度まで役になりきったが、まだ自分の性格を残していたと思っています。これが彼の特徴です。
観客6:数本だけ作品を取上げて、彼は地で演じていると言うのは哥哥に対して、不公平だと思います。彼の作品を見てきて、演技が非常に多様で、役に投入していることが良く分るからです。私がもっとも張國榮を尊敬する点です。
許愿先生に伺いたいのですが、彼と接触してきて、彼のような率直でまた真面目な人間が、芸能界で苦痛を受けたその原因は何だとお考えですか?
許愿:芸能界は人間関係の円滑な人に向いていると思います。そういう人でこそ生き残れ、また楽しくやってゆけると。お答えするとしたらLeslieは好き嫌いを率直に表しすぎ、自分で面倒を起こしていました。特に人気が出る前は。厳しい道でしたが、彼はまた環境に安穏としていられる人でもありませんでした。感受性も強く、そのために感情も豊かで、時にややこしくなります。演技でも歌でも、感情豊かであればこそ更に魅力あるのですが。彼は八方美人ではなかったと言う事です。なろうとしたことはあるかもしれませんが、自分のある人ですから。その為に苦労したかもしれないと思います。
鳳毛:付け加えさせてください。私は彼の演技が自分の地だったと言うのではありません。
時間の関係で、彼の演技の特色を一角度から探さざるを得ませんでした。また取り上げた作品も、役柄が特殊で比較できないものは外さざるを得ませんでした。数本を選び、彼独特の表現方式をお話したかったのです。
許愿:彼の表現方法は大変高度です。自分の真の感覚、愛情、心情で演じています。例えば《ダブルタップ》《カルマ》など。
多謝 張國榮
文潔華:
人の一生の業績はある場所で決定されるのではありませんが、しかし彼が老年、または事故で亡くなっていたら、記念の仕方も違っていたでしょう。彼が若く多くの奨を取った時”その光も永遠ではない”といった人がいましたが、短い人生に永遠を生きたと思います。
本日いろんな記念行事が行われていますが、この会は真面目に彼の芸術性を思考するものです。先ほど六姐に対する細やかな心遣いについて語られましたが、子供の頃母親や親しい人に可愛がられても、成長すると全ての人が愛してくれるとは限りません。排斥や拒否にあう事もあります。哥哥は「良くしてくれた人を一生忘れない。」毎回コンサートでは「あなたたちがいるから、ボクの人生は素晴らしい」と言っていました。哥哥を失望させないように、彼を支持し記念しましょう。そして感謝しましょう。彼が私達とともに1956年から2003年まで香港で過ごした日々は、私たちのものです。今日語られたゲスト方々にも同意いただけるでしょうが、彼の業績は知られているよりも更に豊富で独特なものです。あたかも数え切れないほどの面をもつダイヤモンドのように。
張國榮に拍手をおくり、感謝しましょう。今後もこういった活動は行われるでしょう。毎年行われる事でしょう。張國榮は香港には数少ない傳記であると証明する為に。