第7回セミナー(日本語)

The 7th Leslie’s Seminar

(Translated by Miho)

日期:2006.04.02
地點:香港九龍灣國際展貿中心演講廳
主辦:哥哥香港網站

講題…..レスリー・チャン 作品から読み取れる真実と誠実
講者…..張之亮(電影導演)、林紀陶(電影編劇及影評人)

はじめに

林紀陶:

本日のセミナーのテーマは《張國榮影像中的真興誠》(レスリー・チャン 作品から読み取れる真実と誠実)です。後半生の映画作品において、レスリーは「真実と誠実」を心の中だけにとどめおかず、映画を通じて表現しました。

皆さんに昨日の体験をお話したいと思います。昨日は4月1日でした。私たちはいつも通り仕事をし、生活しなければなりません。私は業界関係者との3つの集まりがありました。会議、食事会、気さくな集まり、でした。その中でいつの間にかレスリーの話になっていました。そして3度とも、この日にレスリーのために1分間黙祷しようとなり、静かに私たちのよき友をしのびました。映画界のよき友です。こういうことを毎年続けていくでしょう。実際レスリーを忘れられないのです。映画界の“パパ”である張同祖氏は一分間黙祷した後「レスリーを忘れられない。後半生の作品では、彼の行動はすでに手本になっている。映画人の模範になっている。」と言いました。《流星語》でレスリーは1香港ドルで出演し、行動で心から映画を愛していることを示しました。ですから今年のこの記念活動は、ジェイコブ・チャン(張之亮)監督をお招きするのに良い機会だと思いました。チャン監督は《流星語》でレスリーと仕事をされました。私も知らなかったのですが、レスリーが監督した短編《煙飛煙滅》にも監督は参加されているそうです。ではチャン(張之亮)監督にお願いしましょう。

《流星語。》の青写真

ジェイコブ・チャン:

ことばで表現するのはうまくないのですが、本日ここに伺ったのは皆様に私個人の気持ち、そしてレスリーについて、もうご存知かは分かりませんが、お話しして共有したいためです。本日のテーマは「レスリーの芸術生命の真実と誠実」と聞いています。私は彼の演技も人生もあまり良く知らず、このテーマを語るには適任ではないかもしれません。ですので《流星語》の製作を通じて見聞きした事をお話しします

1998年香港映画界が非常に低迷していた時期です。仕事がない人も多くいました。その原因は海賊版と、そして香港人が映画に失望し見なくなったことです!あの時20数名の監督が、監督会の後押しの下ある運動を始めました。[創意聯盟]です。アン・ホイ(許鞍華)、メイベル・チャン(張婉婷)、ウォン・カーワイ(王家衛)、スタンリー・クワン(關錦鵬)など尊敬を集める監督が、誠意ある作品を製作する。またレスリーのような有名俳優の参加も募る、というものでした。先に監督とシナリオがあり、その後俳優を決め、作品を外国に売ります。たとえば台湾会は若干の収入があり、香港でも映像メディア出版社や映画館を所有する企業から借りること等を考えていました。俳優は出演料を受け取らず、主なスタッフもできるだけ給料を低く抑え、製作予算を30~40%減らしたいと考えました。通常製作予算の大半は出演料です。

私はこう考えました。十数名の監督がそれぞれテーマを出す。自分もその中の一人だ。今の社会に必要なのは何か?世界は金融危機に直面し、負債を抱えている。ある日バスでおなかの大きな女性をみた。赤ちゃんを産むというのは嬉しい事のはずなのに、彼女の顔は曇っている。香港は何を必要としているか?映画人としてどんなメッセージを社会と共有できるか?人に楽しさを与えるのは値打ちのある事です。喬宏という俳優は、もう亡くなりましたが『喜劇に出演するのも嫌ではない。喜劇を演じるのはよいことだ。観客に楽しさを与えられるから』といっています。今香港人はどうしたら笑えるだろう。どうしたら喜劇が撮れるだろう?と思いました。そこでチャップリンの映画を何度も見直し、その中で《キッド》に感動しました。誰がチャップリンの役を演じられるだろう?もし《キッド》という喜劇をリメイクできたら、見る人に自分が多くのことを失ったことを思ってほしい。例えば親しい人と別れたとか、事業が失敗したとか、うまくいかないことが多々あるとか。その為に人々の自由を奪われることはない。しかし香港人は生活のために悩み、周りの人や共に生活している人々を粗略にしがちだ。このとき私は喜劇の形で、メッセージを伝えるのが良いと思いました。[創意聯盟]で各監督がそれぞれに題材を出しましたが、そのうちの一つが《キッド》でした

そしてチャップリン探しが始まりました!イー・トンシン(爾冬陞)監督がレスリーに依頼してみてはと提案しましたが、私は「レスリーがチャップリン役?」と疑問でした。私は[創意聯盟]の理念に心から賛同していましたが、しかし懐疑的でもありました。仕事をしない映画製作者が有名な俳優に向かって「我々は今香港映画のために力を出している。あなたも報酬をなしでやってくれ!」というのは言い訳と思われないかと心配だったのです。これは気分のいいものではありません!そこで心の中で「レスリーに頼むべきか?」と何度も問いました。準備が進むと、この作品には有名俳優が出ないと完成しない。もしくは完成してもみる人がいないだろうと分かりました。私や他の監督が同様のテーマで撮った事がありますが、興味を持って見てくれる観客は多くありませんでした。また私は自分を卑下していた、もしくは他人に懐疑的な為に行動することを拒否していたかもしれません。トップスターに対しては、ペテンに巻き込みたくないというような。その後、爾冬陞がレスリーに電話で話しました。そしてその後一週間も経たないうちに会う事になりました。

某日午後3時。ぺニンシュラホテル カフェショップにて。

ジェイコブ・チャン:

あれはぺニンシュラホテルのカフェショップで、午後の3時でした。顔を合わせた時は心臓がドキドキしていました。一つには彼は相当の・・・(林紀陶:スーパースターですから)ハハハ。そして自分が好きな人ですし!また自分がある事を営業しなければならない。「お金を受け取ってくれるな!」と。しかし私がまだ脚本のストーリーについて話す前から、レスリーはすでに了解した様子でした。もしかすると事前に別の人に、ナンサン・シー(施南生)か誰かに事の経緯を聞いていたのかもしれません。私の心配は杞憂でした。映画人たち、名の知られた人たちが、皆でひとつの事をやり遂げたいと思っていました。レスリーは、自分が参加するのは皆に仕事があって欲しいから。最も大切なのは働く人に収入があることで、その他については二の次。そして大切なのは、そして大切なのは、良い作品を皆で一緒に製作する事だと言いました。私は「こんなに早く了解してくれるの。まだストーリーも話してないのに!」と思っていました。(林紀陶:そうですね。言おうと思っていた事もまだ言ってないのですから!)そのときから、彼は後悔や不平を漏らすことはありませんでした。そして1香港ドルで出演契約にサインし、出演しました。これは契約書には契約金額が必要だったので、1ドルを入れたのです。このように始まりました。目の前にいるレスリーは私が20数年前に見た彼より好印象でした。《メリー・クリスマス》の彼です。私は当時プロデューサーで、レスリーは、ロレッタ・リー(李麗珍)のボーイフレンド役で、3-4日で撮れるくらいの出番でした。自分の番が終わると静かに帰っていました。この時レスリーをよく知っていたとは言えず、一緒に仕事をした間にも《メリー・クリスマス》撮影時、時間を連絡した人間だとはいいませんでした!(林紀陶:あなたの事も覚えていたと思いますよ!)そうするのが、怖かったのです!

哥哥と明仔

ジェイコブ・チャン:

その後私たちは《流星語》のシナリオを準備し、書き上げたものをレスリーに見せ、意見を求めました。レスリーは「監督が決めるのが良いよ。全てにおいてプレッシャーを感じてほしくない。大事なのはみんなでこの映画を成功させる事だから、あなたの決定に影響を与えたくない。」と言いました。ですから、変更にもレスリーはほとんど意見を言いませんでした。もしかしたら、出来上がったシナリオに満足していたのかもしれません。

もう一つの難題は、子役の人選でした。人を感動させる子役が必要でした。この作品の成功にはレスリー以外に、観客が身近にいると感じるかわいい子どもが必要です。演技を知らず、映画に触れた事のない方が良いと思いました。子どもの表情に形式化した表現を浮かべさせたくはありませんでした。香港全域で宣伝し、多くの子を集めました。最後に落選した子たちのビデオをもう一度見直し、あの“4歳の明仔”を選びました。あの子がたった4歳、しかも4歳になったばかりと聞けばとても撮れないと言われたでしょう。しかし私たちには資金がなく、予算超過は許されませんでした。30日以内に撮影を終えなければなりません。ですから情緒の安定した子を選びました。外見はかわいらしく、純粋で、天真爛漫です。実はもう一人8歳の子がおり、やるべき事がよく分かっており、コミュニケーションも取り易かったのです。しかし私は4歳の方を気に入っていました。4歳の子が明仔で、8歳では聞き分けが良すぎると。そして二人の写真とキャスティングをレスリーに見せました。レスリーはこれだけでは選べないから、一度会ってみたいといいました。そこで子供たちをレスリーに会わせました。子ども一人だけで会わせると、もしその子が採用されなかった場合に傷つけるかもしれません。そこで集団で会わせました。子供たちはレスリーに会って話し、レスリー自身も4歳の子を気に入ってくれました。私は「あの子は哥哥自身が気に入ったんだからね。聞き分けない時は・・・ハハハ!」と言ったものです。

知っておいて頂きたいのは、子どもを励ます時に罰やご褒美は与えなかった事です。このやり方は良くありません。子どもはまだまだ長い人生を歩みます。上手く演じたら褒美を上げるという方法ではいけません。レスリーも同様に考えていました。子どもの価値観に意見すべきでないと。撮影は大人の事情で、子どもに強いるべきでない。レスリーはそういった通り、撮影前に早めに来て子どもと遊び、二人はとても楽しく離れられない様でした。毎日そのようにレスリーは子どもとの関係を築き、子どももレスリーを一人の俳優ではなく、親しい人と受け入れるようになりました。子どもの家族も哥哥に感心していたでしょう。撮影の為というだけでなく、子どもの良い友達になっていました。将来の子どもの演技や生き方への考え方を変えない、これが私たちのやり方で、だからあの子にプレゼントを贈ったことは一度もありません。あの子がこのゲームに参加していると分かれば良い。彼はプロではなく、下手でも良いのだから。しかし完成まではやること。人生でもきちんとけじめはつけるべきだから。哥哥は彼にこう教えました。

レスリーは撮影現場で、大変だったと思います。自分でも演技し、相手との関係も良くしなければならない。二つのプレッシャーがあったと思います。一つは観客を失望させないこと。彼は自分が、上流階級またはホワイトカラーと見られる事を分っていました。今回は一夜にして全てを失った役で、演じきって観客の期待にこたえ、自分自身でも満足できるものにしたい。もう一つは相手が子どもで、自分のすべき事を理解できるか不明でした。また自分の心理が子どもに影響しては困ります。彼自身も言ったように「1、相手が小さい子。2、自分の演技でがっかりさせたくない。3、意義のある作品で、出演料も受け取らない。その事でこの作品の良し悪しに先入観をもって欲しくない。実際つらいよ」。彼のストレスは相当のものだったと思います!

哥哥の無形の協力

ジェイコブ・チャン:

レスリーは極力監督の創作に意見を出しませんでした。しかし彼の存在は大きな助けになりました。ヒロインを選ぶとき私は数名に連絡したのですが、断られました。キキ(琦琦)の役、母の役が嫌われました。(林紀陶:あの役も辛いですね!もしかするとあの役の“考え方”が受け入れられなかったのかもしれません。実際には、そんな事はないのに!)この彼女の“価値観”については討論に値しますが、今日は話しません。ある俳優は「自分のイメージはこうあるべきだから」と言いました。しかし俳優であるならば、役を上手く演じることが第一で、彼らの実際と演技での姿は別々であるはずです。レスリーはこれを聞いて不機嫌でした。そして積極的に電話をかけてくれましたが、彼の立場では難しい事もありました。この作品に参加している立場で、最前線には出られず、後ろで手助けできるのみでした。この役には女優でない人を選んでは?となった時、レスリーは琦琦を推薦しました。「琦琦に聞いてみたら?琦琦は良いよ!」と。私は嫌でないか聞きました。「嫌じゃないよ!また彼女と恋人を演じるのでもないし!」。琦琦は非常に背が高いので、避けたがる俳優は多いのですが、彼は違いました。そして琦琦に連絡すると、琦琦は快く受けてくれました。彼女も形ばかりの出演料でした。ティ・ロン(狄龍)とキャリー・ン(吳家麗)も支持してくれました。これは多かれ少なかれ、監督やスタッフの力量ではなくて、レスリーも支持しているからということで、思い悩むことなく参加してくれたからだと思います。

哥哥の感染力

林紀陶:

昨年のセミナーで、アイドルの演技から後期の深さと広がりを持った演技までを紹介し、後期の演技は《流星語》から始まったとお話しました。《流星語》の役は単純に見えます。しかしレスリーのような立場の俳優にとっては、難しいものでしょう。簡単に言うと下流の生活で、レスリー自身は接点がなかったものです。なり切るのが難しい上に、演じる者にもマイナスイメージを与えます。もし俳優が自分のイメージを気にするなら、プレッシャーとなるでしょう。このプレッシャーは琦琦の役にも言えます。あれは子どもを捨てる母親ですから、こんな役は女優は皆嫌うでしょう。もしかすると俳優の多くはこの関門を越えられないのかもしれません。しかし先ほどチャン監督がおっしゃったように、レスリーはすぐに受け入れました。チャップリンの《キッド》のチャーリーの役を見ると、レスリーは「非常にチャーリー的」に演じています。外見ではなくて、人を感動させるようにということです。アメリカの経済低迷期、ある男が子どもを拾い育てる愛情の物語です。《流星語。》でのレスリーの演技は非常に徹底しており、それゆえに私は見直してまた新しい印象を持ちました。哥哥のプレッシャーも感じました。自分の役になりきる以外に、他の人も順調にいくように苦心している。例えばカリーナ・ラム(林嘉欣)の様な、共演した俳優の多くは口を揃えて、レスリーが現場にいると安心できて演技に集中できると言っています。これは無意識のことではなく、現場の雰囲気をよくするために骨を折ったのでしょう。

またレスリーは非常に面倒見の良い人です。一度彼に電影評論学会で賞のプレゼンターをお願いした事がありました。しかし彼は主催者のようで、私たちの世話もしてくれ、その場に柔軟に対応し、最後には自分がするべきことは終わった?帰ってもいい?と尋ねてくれました。まるで私たちと一緒に主催者であるようでした。哥哥がそこにいる時のあの温かい雰囲気は、なんとも形容できません。そしてその温かさがレスリーからくると分かると、さらに感動します。すべき事を率先してやり、後輩を思い、尊大ぶらない。自分を振り返ると、レスリーのような地位のある人でも、なかなか出来る事ではありません。

哥哥の演技の特徴

林紀陶:

香港映画の情勢の変化により、現在は香港での撮影より、中国や外国との合作の機会が多いです。合作時に演技や演出の方法を話し合いますが、中国国内の演出を見ると、華北、華南と華東で明らかに異違います。香港の演出は香港、広州、嶺南一帯を含む華南地区のやり方です。つまり粤劇から発展してきた方法です。この発展と香港の演技の特徴を調査したのですが、香港映画については評論が少なく、資料を整理する事もなかなか困難でした。資料の多くが散逸していて残念です。この調査を通じ、香港の演出方式にはすでにその伝統が失われたものがあると分かりました。最もよく分かるのが、一代前の粤劇や舞台劇から発展して、映画俳優になった人たちの演技です。継承できる人がいませんでした。例えば梁醒波、靚次伯、唐滌生等の記念活動で彼らの人物を血の通った人間として演じるのを目にします。映画文化の継承の不備をどうしましょう?往々にしてその輝きを見た後、継承することなく失われています。若い役者たちにも同じ事が言えます。彼らが大きな火花を散らしたとしても、映画界の不況で、伝わる事なく失われます。レスリーの演技の継承も憂慮され、あれからまだ3年過ぎただけですが、すでにこの危機の兆しが見えています。多くの役を書いても、上手く当てはまる俳優がいないのです。そしてこれはレスリーに演じてもらうべきだと考えてしまう事が多いです。

レスリーが演じた役は他の人ではできないものが多いです。例えば十二少、程蝶衣、寧采臣、他にもたくさんあります。私の友は比較文学を専攻しています。劉大木と言いますが、《チャイニーズ・ゴーストストーリーⅡ人間道》の脚本家です。彼はその演技が失われた俳優を分析しており、簡単な例を出していますので、彼の分析を引いてお話しましょう。寧采臣はテレビドラマにもなり、彼に似た書生の役は多いです。ごくシンプルな役に見えます。しかしレスリーが扮し、程小東監督とプロデューサー、徐克の手にかかると、唯一無二の寧采臣になっています。他の俳優が演じた流浪の書生のほうが良く見えたとしても、その書生ではユーモアを感じないでしょう。その俳優がユーモアを表現しようとすれば、知的で優雅な感じが損なわれます。風雅さを強調すれば、人物が単純に見えます。《チャイニーズ・ゴーストストーリー》の第一集から第二集では相当複雑に変化していますが、レスリーにとって問題ではありませんでした。彼が問題とする役はないでしょう。それは彼が“役を演じている”のではないからです。哥哥はこう言いました。「これだけ長い間俳優をやっていて、まだ役を演じていると感じさせたら、それは大失敗だよ。」もしただ演じただけなら、現在のレベルには達しなかったでしょう。習熟の程度はあるでしょうが、レスリーは自分と役を融合させて演じたのです。これは彼の優れた能力です。中国で撮った3作品でも、彼は役を良く理解し掌握しています。

もう一つの例は《覇王別姫》の京劇役者です。現実の人物としては梅蘭芳がいます。舞台上では女性だが、舞台を下りると男性です。他に日本の有名な歌舞伎俳優・坂東玉三郎が上げられるでしょう。舞台上では女性らしく優雅で、嬌態も演じ、しかし舞台を下りると異なります。もし俳優が実際に経験したのでなければ、こういった人物の性格や世界を演じるのは難しいでしょうが、哥哥はやってのけました。《覇王別姫》での難しさは、作品中にすでに二つの世界が存在し、それぞれに具体的な表現を必要とすることです。哥哥の京劇の演技は賞賛されていますが、舞台下での感情表現はさらに複雑です。諸々の感情を持って生きている人間のように演じなければなりません。あの素直に表現できない感情、表情に現れない嫉妬など、劉大木はこれほどの演技は《覇王別姫》でしか見たことがない。レスリーだからこそ演じられたと言っています。

この2例は、彼の演技が他の人では、成しえないことを具体的に示しています。また彼は役に融けこみ、演技を唯一無二のものにしていました。レスリー作品を鑑賞するとことばに表せる感想の他、言い表せない思いが溢れてくると思います。続けて探すなら、他にも証拠をたくさん挙げられますが、これがレスリーの演技の最大の魅力であり、同時に彼の演技が絶えてしまった原因でもあります。香港映画は彼のような演技を必要としています。もし本当に耐えてしまったのなら、大変惜しい事です

監督たちは哥哥を起用して、実験をしたがる。

林紀陶:

香港映画と監督は変化を求める時に、良くレスリーに演技を依頼しています。例えば徐克は《龍門客棧》のあと、作風を変えたいと考えました。徐克と話したとき《金玉満堂》と《大三元》は実験作だと言いました。徐克は自分の世界がどれだけ広げられるか実験した。そして改革を求める時、レスリーとアニタ・ユン(袁詠儀)を起用した。彼らになら安心して任せられたのでしょう。また“リゾート映画”と呼んでいますが《恋戦沖縄。》では、監督のゴードン・チャン(陳嘉上)は市場の計算に長けています。社長と撮影費用と収入の話しをつけて、創作の独立を求めました。彼の“リゾート映画”にもレスリーを起用しています。爾冬陞と羅志良が大胆に特殊なテーマの作品を撮るときにも、例えば《色情男女》の様な、レスリーに任せれば安心だったのでしょう。監督たちはレスリーの表現には深みがあり、安心して冒険できると分かっています。《流星語》に戻ると、出費を抑えても心のこもった作品を撮るには、香港映画に真の愛情物語を残すには、このメンバーが必要だったのです。

ただレスリー一人

ジェイコブ・チャン:

《流星語》については、哥哥の演技を皆さん認めて下さると思います。しかし撮影の後、レスリーは不満に感じていました。製作に彼は心血を注ぎました。例えば上海でのあのロールス・ロイスは彼の友達のものです。あとで石が当たって傷をつけてしまいました。カフェも彼のものです。自分でできる事なら、なんでも協力してくれました。以前私の恩師が、俳優にとって一番大切なのは自分を解放することである。目を見開いて世界を見つめ、人を観察する事。心は広くないといけない。心が広ければ、良い俳優になれるだろう。周りの人の行動や物事についての考えを多く吸収できるから。胸襟を開かず他人を受け入れないなら、それぞれ違った人は演じられない、と言いました。レスリーの演技は、すでに演技には見えないと思われるかもしれません。ちょうど彼が自分で言ったように「これだけ長い間俳優をやっていて、まだ役を演じていると感じさせたら、大失敗」なのです。私は良い俳優とは、演じていることを感じさせない人だと思います。なぜなら俳優は新たな命、新たな顔をもち、その役の血が流れてこそ演技に成功したと言えるからです。もし俳優に出会う人物を全て受け入れる器の広さがなければ、その人物は演じられません。先ほど出たように京劇俳優でも彼は演じきりました。市井の人も裏社会の人も可です。《流星語》の製作中、彼はそれを見せてくれました。まずは人を観察する能力です。次にまっすぐな生き方です。狄龍はレスリーは以前仕事をした時から変わっていないと言いました。まっすぐな生き方を変えず、利益のために人に近づかない。私はレスリーの温厚さとしっかりした価値観を尊敬しました!映画スターとはどうあるべきかと聞く人が多いですが、度量が広くあるべきでしょう。しかし生き方もしっかりしないのに、何が映画スターだという人も多いです!

《流星語》でレスリーは失望と不満を味わったと思います。その性格ゆえに、彼は自分がこの作品にどれほど力を注いだかを喧伝しませんでした。特別メディアに言いたてる事もありませんでした。しかしだからといって、自分の演技をないがしろにしたのではありません。彼が言いふらさなくても、当然だと分って頂けるでしょう。レスリーは失望していました。話していると《流星語》への評価ではなく、香港映画界、芸能界に失望している事が分りました。彼は一種の冷淡さを感じていました。《流星語》以外に、どの映画が撮影された?もしレスリーが一歩を踏み出さなかったら[創意聯盟]も成り立たなかった!経過を振り返ると、メディアの報道によらず、見るべき事実は目の前にあります。レスリーが自ら全てを動かしたのです。例え多くの人が様々言い合ったとしても、実際に走り出した人は幾人いたでしょう?哥哥一人です。

林紀陶:

レスリーのエピソードは、できるだけ集めて読むべきですね。彼は才能に恵まれましたが、幸運な星は持ち合わせていませんでした。不遇な時もありましたが、彼は自分の道を歩み続けました。この世界が往々にして冷たいこともよく知っていたと思います。しかしもし自分も冷淡になれば、この世界はさらに理想から遠ざかります。レスリーは率先して氷山を溶かそうとする人でした。この姿勢は他の人にも広がります。現場で誰にでも分け隔てなく接する態度は、本当に立派なものです。ですから哥哥を語る人は皆、彼を忘れられないというのでしょう。

質問と意見

林紀陶:

皆さん方で、張監督に質問されたい方もいらっしゃると思います。私は監督ほど近くレスリーに接した事がありませんので、うらやましいです!レスリーがその場にいると本当にエンジョイできるのです!皆さん質問の機会をお見逃しなく!

「俳優について私が評価するのは、彼の生き方」

観客1:

子どもはよく思いもつかないようなセリフ、アドリブを言うと思いますが、レスリーはどのように対処していましたか?

ジェイコブ・チャン:

《流星語》で、レスリーと明仔がもうすぐ別れるというシーンがあります。道具は通常先に用意するものですから、玉子焼きやハムも事前に用意していました。
レスリーには生活感を出したい。何気ない感じにと伝えました。何気なくすれば、さらに心が痛むでしょう。もうすぐこの子どもは自分のものでなくなる。別れなければと分かっている時には。また子どもの為を思えば、淡々とすごすべきでしょう。レスリーはシナリオ通りに、目玉焼きを熱くないように冷まして、明仔に与えました。明仔は頬張った後に「冷たい!」とアドリブで答えました。レスリーは「火傷すると困るから!」と応じました。カットと叫ぼうかと思いましたが、レスリーの反応が当意即妙で、却って嬉しくなりました!(林紀陶:Good Takeになりましたね!)

通常演技は相手とコミュニケーションするもので、行ったり来たり、セリフを通じてコントロールできます。しかし4歳の子どもはしょっちゅうアドリブを出し、しかもそうそう撮り直しができません。子どもはもう一回を嫌がるし、挫折感を与えかねません。「何がまちがったんだろう!絶対に冷たいよ!」と思うでしょう。レスリーが言った様に「馬と鬼軍曹、子どもと犬は演技の相手にはやりにくい」です。しかしレスリーはいつも落ち着いていて、相手も楽に演じられるように望んでいました。(林紀陶:子どもがレスリーを本当の肉親のように思っているのが分かります。本当に離れられない様子です。)

初めは確かに難題がありましたが、幸運にもレスリーは経験豊かでした。覚えているのは、子どもが一人で家にいて、冷蔵庫からパイナップルパンを取り出そうとする。しかし転げ落ちて「アイヤ!」と叫ぶシーンです。このシーンをどうしたら良いか、2時間考えました。その日はレスリーは遅めに来る予定でした。彼に負担は掛けられません。運良く彼が早く来てくれ、レスリーが子どもに教えました。どうやったのか4歳の子どもに理解させ、また思う通りの効果を上げられました。レスリーは子どももセリフを暗記して言うほうが良いと考えていました。私が訓練班にいた時、長いセリフを覚えるのは大変でした。さらに小さな子どもです。もう一つは部分ごとに撮る方法ですが、子どもにとってはさらに困難でしょう。今は手を前に出していたのに、次は後ろに回しているなど、Cutが続くのも面倒です。レスリーは自然に見えるようにと、子どもに何が起こるかを教えて、セリフとの関係を分からせるよう、心を砕いていました。

私が俳優を評価するのは、その演技の技巧がどれほど優れているかではなく、どれだけその生き方、相手への態度が優れているかです。レスリーは相手を常に気に掛けていました。自分の演技だけを考えるのではなく。本当にいい人です。

「誰が私たちの最愛の人かわかっている」

観客2:

香港金像奨の歴史を見ると、受賞回数で言えばレスリーはトニー・レオン(梁朝偉)に負けています。何が金像奨の結果に影響し、奨の結果は名実伴うものなのか。金紫荊奨、評論学会、金馬奨などの結果は、往々にして異なっていますが、監督のご意見をお聞かせ下さい。

ジェイコブ・チャン:

オフィシャルな答えをさせていただきます(笑)奨についての私の考え方は、奨のために撮影するのではない事です。奨の審査員や評論家には全て、彼らの好みがあります。もしかすると審査員を多くしたほうが、公平になるのかもしれませんが、それははっきり言えません。もしレスリーが私がこの事について話すと知ったら、彼も同意してくれるでしょう。「一つのことについても、それぞれ見方が違う!誰か一人だけを好きと言わず、他の人も好きになって。」と。金像奨にも多くの人多くの審査員が参加し、このゲームの規則もあります。ある女優がその作品は数多くノミネートされているのに、なかなか奨がとれない。なぜなら票数が分散したから、と言う事もありえます。だから何がフェアかは言い難いです。またこのゲームではフェアかどうかは、重要ではありません。心の中では誰が最愛の人か、分かっているのですから!

林紀陶:

一度金像奨でレスリーがプレゼンターをつとめた事がありました。舞台裏で梁朝偉を見かけ、「今回もまた君が奨を獲るよ!」と冗談を言っていました。そしてそうなったら、きっと彼自身で奨を渡すからと。奨に関してはライバルですが、プライベートでは友達です。これもあまりない事で、レスリーの度量が知れるでしょう。

「レスリーが来たら、明仔はごきげん」

観客3:

レスリーがあるインタビューで言ったのですが、レスリーの出番はなくて、明仔だけの時、明仔がぐずりだし監督はあやせなかった。しかし哥哥は短い時間で明仔のごきげんを直したと。どうやったのか知りたいです。またその方面でのレスリーの貢献を教えてください。

ジェイコブ・チャン:

もともと二人はほとんど一緒に過ごしていました。レスリーが言ったのがどの場面かはっきり分からないのですが、唯一一緒でないのは明仔と琦琦が一緒のシーンです。レスリーが琦琦に預ける時。ですから哥哥がどうやってあやしたか?レスリーが来ると子どもはごきげんなので、特にどうしなくても良かったのです!明仔がごきげん斜めのシーンも必要で、その時はレスリーにはその場を離れてもらいました!

「父親像を適切に創り上げた」

観客4:

《流星語》の上映後、ある評論を読みました。レスリーの下層階級の父親はまずかった。ラウ・チンワン(劉青雲)のように、それらしい感じがなかった。映画が不評だったのは、香港人がレスリーがこのような役を演じるのを受け入れられなかった為、と書いてありました。こういった見方に対し、監督のご意見をうかがいたいです。もちろん私たちはレスリーの演技を認めていますが、どうして当時のあのような評論があったのでしょう?

ジェイコブ・チャン:

私はその評論は読んでいません。中・上級階級の人が社会の谷底に落ちたとしても、彼には彼の本来の姿があります。劉青雲に変わってしまうはずがありません。(林紀陶:その評論はおかしいですね。偏っています。)人の本質は変わらず、変わるのは生活方式のみです。彼は妥協を強いられますが、その妥協とは下品な口をきいたり、乱れた生活をする事とは違います。本人は一定の教育を受けてきており、それは変わりません。また心の中の父親像も人それぞれでしょう。子どもへの愛のほうが、まだ共通しているかも知れません。私はレスリーは適切な父親にしたと思っています。その評論の考えには賛成できません。

林紀陶:

レスリーが演じているのは養父です。映画の冒頭でも彼がどういう人が語られています。その後変化をむかえる。明確かつ細やかに描かれています。もしその評論が劉青雲の演技のほうが良いと言うなら、その論点は相当に奇妙ですね。もしかするとあるポイントに絞って論じているのかも知れませんが、基本的に成り立ちません。

「どの作品であれ誠心誠意演技した」

観客5:

チャン監督は先ほど、この作品は香港映画の低迷期に撮影されたとおっしゃいました。レスリーにとっては彼の芸術の最高峰の《覇王別姫》に比べ、《流星語》は小さな作品だと思います。しかし彼のアーティストとしての人生の中で特別な作品でもあります。他の役とは全く違いますから。私は出資者とチャン監督にうかがいたいのですが、どうしてこういったテーマを選ばれたのですか?こういったテーマはどちらかというと、中国や台湾に多いと思います。例えばホウ・シャオシェン(候孝賢)などの人を描いた郷土映画です。香港では人の心を描いたものは少ないと思います。

ジェイコブ・チャン:

私は絵を見に行きます。デッサンも絵ですし、ピカソの一筆もすばらしい。またエドガー・ドガのバレエの絵も美しい。それぞれの芸術家そして作家は、それぞれの芸術観点を持っています。例えばそれぞれの映画に、その芸術観点、撮影観点があるように。美しさとはどれだけ絵の具を費やしたかではなく、大切なのはその中に伝えるべきメッセージが含まれているか、愛があるかをいいます。レスリーが生涯で最も自信を持ち、後悔のない作品はというのは、本人に語ってもらわなければなりません。私は彼の作品は、どの作品であれ誠心誠意演技したと思います。作品のできの良し悪しは、皆さんの見方は違いますから、私が言えるのは「全て皆、哥哥がやりたかった事」だということのみです。

香港は商業的な映画が多いです。中国の商業映画が私の作品のような、おっしゃるように誠意を持って、人の心や社会の発展を描くものかもしれません。それぞれの社会体制の中で、映画に必要なものは異なります。台湾は台湾で、香港は香港で、中国は中国で。これは製作者の傾向にもより、その価値があると思えば撮影するでしょう。そのために香港では人の心を描いたものは少なく、別のタイプの作品を偏重しています。映画製作者として、自分が好きなもの、また自分もメジャーになる作品を撮りたいと思う以外に、感動させる映画、もしくはもう忘れ去られたような映画を撮りたいというのが私のモットーです。レスリーは[創意聯盟]の呼びかけで出演しましたが、もし純粋に商業映画を撮るなら、哥哥を起用しなくても良かったのです。彼が心の中で重きを置いていること、加えて「1+1=3」になってほしいという願いで、一方では香港映画界の助けになる、またこういった種類の映画の助けにもなるという事で、レスリーは出演したのです。皆に仕事があれば良いといった、単純な目的だけではありません。もし誠意のあるテーマを選べば、私は重苦しいものになるのを恐れていました。哥哥も賛成して吟味し、これも彼が《流星語》を選んだ理由です。もし《覇王別姫》の続編に起用の話があっても、彼は出演しないかもしれません。すでに《覇王別姫》には出演していますし、すべて選択と決定にはその時の様々な事情の上にあるものです。彼のそれぞれの時期を、興味深く見て、読み解いていこうと思います。

観客6:

私は95年に《君さえいれば》をみて、レスリーの演技をみて震えるような感動を覚えました。彼が役と自分を融合した演技をしていたとは。当時はどうしてあのように演じられるのか分かりませんでした。本日は私の十数年来の疑問が解けました。二人のプロのゲストに感謝します。また主催の方に今後も続けていただくよう希望します。こういった活動ではレスリーを懐かしむと同時に、映画鑑賞や哥哥の作品について理解を深められます。

「彼が生きて、行ったこと、それこそが、評価し、また愛するに値する」

観客7:

俳優では例えばチャウ・シンチー(周星馳)やチョウ・ユンファ(周潤發)は、比較的その芸風が決まっていて、しっかりしたイメージがあります。一方でラ劉青雲やレオン・カーファイ(梁家輝)はあまり芸風が決まっているといえず、作品によって異なります。監督はどちらを評価されますか?關錦鵬監督は、レスリーの美しさが彼には障害になっているといいましたが、彼の外見は演技にどんな利点、欠点があったでしょうか?

ジェイコブ・チャン:

先ほども申し上げたとおり、アーティストや芸術派はそれぞれのスタイルを持っています。幸せな事に映画の中で語るのは人間であり、多様な表現者が必要となります。アーティストは自分の演技法をもち、ストーリー・テーリングの方法を持っています。そしてそれゆえにこれが、俳優を束縛するものともなりえます。ある役でヒットしたために、束縛されている人もいます。またそのために監督がキャストを決めるのも大変なのです。自分が成功したイメージのために、出演を断る人は多いです。多くの作品を断っていると思います。挑戦を恐れるのではなく、ただ挑戦して失敗することを恐れています。失敗はつまり観客がその人の演技を受け入れないことで、投資家は次の作品にその人を起用するか現実的に考える。だから俳優たちは、自分のイメージに臆病になり、ある演技で成功したから、ずっと同様に成功するだろうと考えます。20年来変わらない俳優もごらんになるでしょう。

哥哥の美しさが彼の障害になったかは、私はなっていないと思います。

林紀陶:

俳優の事も考えてあげましょう。おっしゃった一面は、実際彼らの全てに及ぶのです。苦労して創り上げたイメージを、一度冒険したために壊してしまう。彼らの度胸がないとはいえず、イメージは彼らが最も苦労する点なのです。しかしレスリーと比較するなら、その最大の長所は度胸のよさでしょう。彼も危険な橋を渡っていますが、冒険する度胸がありました。先ほど挙げられた俳優たちにはまだ発展の潜在能力があります。彼らに冒険する度胸があれば報いられるでしょうが、なかなか難しいと思います。

ジェイコブ・チャン:

天の神が哥哥という顔を私たちに与えてくれた事に、感謝します。人の美しさは容貌の美しさが問題ではなく、彼が生きて、行ってこと、それこそが評価し、また愛するに値すると思います!

林紀陶:

張監督のことばが、本日のセミナーを締めくくる美しい結びとなりました。