第6回セミナー(日本語)

The 6th Leslie’s Seminar

(Translated by Miho)

日期:2005.09.10
地點:香港九龍灣國際展貿中心會議室316-318
主辦:哥哥香港網站

講題…..從《烈火青春》到《阿飛正傳》—張國榮的水仙子形象
講者…..洛楓(大學教授)

はじめに

2005年の今日、九月にまた皆さんにお目にかかり、張國榮の映画芸術について語り合えるのは嬉しいことです。いらっしゃった皆さんの中には2年来ずっと来てくださっている方もあるでしょうし、また今日が初めてという方もいらっしゃるでしょう。しかし新しい方も老朋友も、皆様を歓迎いたします。そして最も喜んでいるのは、哥哥であると信じます。

今日は彼を追悼し、そしてその誕生日を祝うと同時に、彼の映画芸術における成果について話します。彼が映画の中で創造した人物たち、それは他の人には演じられない人物たちです。私はある角度から作品を解説し、また映像もお見せしてシーンごとに分析したいと思っています。今回は監督や美術指導にはあまり触れません。レスリーが、ある俳優がある場面において、どのように演じているかに集中します。哥哥の映画資料を整理する中で、ある重要な「類型」が浮かび上がってきました。それは「ナルシスト」です。私は今哥哥にも関連する本を執筆中で、やっと先月最も苦労した部分「彼の作品における死亡の描写」を完成したばかりです。これは前回のセミナーの論題で、彼の抑うつ的な面を言いました。ナルシストは別の章に書く予定ですが、今日は先に皆さんにお話して、時間が許せば皆さんのご意見もうかがっていきたいと思います。

まずナルキッソスとはギリシャ神話の話ですが、この寓意がレスリーの20年来、50余作に渡って見られる事をお話します。《男生女相》では、インタビューされた彼が、自分はナルシストだと認めています。ナルキッソスも非常にナルシストで、自分を愛した美少年でした。その後、何作かを特に取り上げて、セミナーの要旨にも載せましたが《烈火青春》と《欲望の翼》は反逆と死を語っていると言う点で、テーマが同じということをお話します。作品の撮影に10数年の隔たりがあるにも関わらずです。ただ哥哥の演技は違っており、その表現は成熟していますが。第三部では《夜半歌聲》の宋丹平、《楽園の瑕》の歐陽峰などの、世捨て人です。《楽園の瑕》では嫌われ者の西毒・歐陽峰を演じていますが、しかし彼の演技は、見てもその役を責めようと思わせません。これは彼の生まれ持ったものの1つでしょうが。どれだけ憎らしい役を演じても、観客は嫌悪しません。ただどうしようもない奴と思うのみです。《夜半歌聲》では美形で鳴らした人気歌手がその容貌を傷つけられた後の心理変化を話します。最後に《覇王別姫》で、時代から取り残された程蝶衣を取り上げます。香港映画を振り返ってみると、レスリーでなければ演じられなかった役が数多くあります。まさに《覇王別姫》での台詞「是非他莫属」(「彼でなければ出来ない」)の様に、他の誰が十二少、寧采臣、程蝶衣が演じられたでしょう?

今日はナルキッソスというキーワードを用いて、哥哥を読み解きます。彼は千変万化で他の姿ももちろんありますし、彼自身の地の姿と映画の役とがそのまま同じとは思えません。最後のまとめで、他の作品のシーンを編集したビデオをお見せします。BGMには《風継続吹》を入れてあり、総まとめとしたいと思います。まだ未研究の課題が多く、今後も多くの方に研究を続けて頂きたいと思います。哥哥の作品は実に豊かです。ではまずギリシャ神話のナルキッソスと、張國榮の映画作品の関係をお話しましょう。

ギリシャ神話における水仙と張國榮の映画

ナルキッソスの物語

ギリシャ神話のナルキッソスの話は何度も書かれ、手を加えられ、文学、心理学、人類学、神話学もこの話から人の持つ特性を読み解こうとしています。ある美しい少年の物語で、非常に美しいと言われる少年ですが、両親はいません。彼の母が天の神と恋に落ちて生まれ、その出生に立ち会った人はいないとする説もあります。哥哥は崩壊した家庭出身の役が多いですが、例えば《欲望の翼》の旭仔・ヨディ、《覇王別姫》の程蝶衣は、母親に捨てられており、ナルキッソスと同じです。美しい少年は多くの女神に愛されましたが、彼は全ての人を拒否しました。天の神は彼を懲らしめる為に、自分の影を愛するように仕向けました。少年はある日、池に映る自分の美しさを見て、自分自身を愛するようになり、最後には恋のあまり溺れ死んでしまい、水仙の花となる。神話ではこういう話です。

この話は西洋の神話として、神話学、心理学(フロイトの心理学でもナルキッソスに関連するものがありますね)そして文学の研究で取り上げられ、人の特性の分析に利用されています。このナルキッソス的人物の特徴は人を十分愛せず、愛するのは自分のみ、という事です。このタイプの人物は元々自我分裂の状態にあります。もし二つに分裂していなければ、影に映った自分を愛する事はないでしょう。自分自身を愛するというのは、一種の同士愛であり、同性愛です。そしてこの愛は完成することが出来ません。影を水中から掬い上げることは出来ないのですから。この愛は実らないこと、悲劇になることが運命づけられています。最後には死をもって昇華するか、超越するしかありません。

ナルキッソスには両親がなく、崩壊した家庭で生まれました。彼は愛情に餓え、そのため自分を愛することで関心を持ってもらえない事を補おうとします。程蝶衣もこのタイプです。彼らは相当に敏感で、繊細で、ある種の宿命を負っています。その人を愛する人が傷つき、拒絶されるという。《欲望の翼》でのヨディはこのタイプですね。ナルキッソスタイプの人と恋をすると、必ず多難な恋で、実りません。このタイプは約束をしたがらないし、責任も取りません。ナルキッソス自身も心地よくありません。彼を理解する人はおらず、自分しかいないことがよく分かっているからです。孤独でパートナーを得ずに死ぬことが彼らの運命です。

愛情もナルシズムの要素を含む

面白い説があるので引用して、人の性質を考えてみましょう。同意頂けるか分かりませんが、同性愛であれ異性愛であれ、両性を愛するのであれ、愛情もナルシズムの一過程というのです。アリストテレスによる神話では、人は本来雌雄同体であり、男男同体か女女同体である。しかしそれを神が二つに分ける為、人は一生その半分を探すのだと言います。自分の半分を探す時、自分とよく似た者を探すことも全く異なる者を探すこともあるでしょうが、全て自分の観点から始めます。だから愛情自体もナルシズムの要素を含むというのです。

《ルージュ》の冒頭のシーンでは、レスリーが自意識たっぷりに周囲を見回しながら階段を上がってきます。そしてアニタ・ムイと歌う。ここに鏡像が多用されています。アニタは男装です。この愛情の邂逅は、鏡に自らを映すのに似て自分と近しい人を探しており、愛情がナルシズムの一過程であることを明確に示しています。また人は必ずナルシズムをもっているものです。程度に差はありますが、傷ついた時や挫折した時など、ナルシズムによって、自分を可哀想だと考えます。レスリーが演じたのは、非常なナルシストで、人を害し自らも破滅するという、極度にナルシスティックな人物たちでした。

レスリー作品中のナルキッソス

ナルシストの役およびその演技は、レスリーが演じた役のタイプの中で重要です。彼は初期の青春映画では、反抗的青年を演じていました。《烈火青春》での登場人物たちは社会には何の貢献もしていなのでは?と問われ、レスリーは「どんな社会?我々が社会そのものだ!」と答えています。自分中心的で、彼らを取り巻く社会がどうなっていようとも気にかけない。初期の不良青年の役にも、既にこの概念が投影されています。《ルージュ》の十二少ではかなり明確です。ナルシスティックな金持ちの息子で、自分の容姿端麗を自覚し、多くの女性が自分を見つめているのを意識しながら階段を上がってくる。レスリーはこの様子を演じきっています。傲慢なほどの目をして、こちらを見つめています。

《欲望の翼》のヨディは期待を裏切り続けます。全ての女性が、養母も含めてですが、彼を捕らえたいと思いますが、何人にも捕らわれない。《覇王別姫》の程蝶衣は舞台で酔い、覇王を愛します。自分が演じる虞姫を愛しているからです。彼は現実に目を向けません。国共内戦、日本軍の侵略、文化大革命、世界で何が起ころうと、気にかけません。ただ虞姫に浸り、貴姫等の役柄として京劇への狂ったような愛を表現します。まさに兄弟子が言うように「現実と芝居を混同する」忘我の境地です。《夜半歌聲》の宋丹平は容貌を害されたことが、受け入れられません。《楽園の瑕》では自分しか愛さず、最後には自我を放逐せざるを得なかった歐陽峰でした。

また本日はお話できませんが《ブエノスアイレス》の何寶榮。彼は付き合いにくい、嫌な人物です。トニー・レオンが演じた黎耀輝は反対に、気遣いもできるまっとうな人物です。何寶榮は好きなように感情をぶちまけ、物を壊し、外には多くの愛人を作ります。黎耀輝を捨てたのに又戻ってきたり。しかし観客は何寶榮をどうしようもないと思い、彼の不徳を良く知っていますが、黎耀輝と同じように、戻ってきた時には彼を愛しているのです。これはレスリーが成功したところです。大成功の演技でしょう。観客がその行為を許せなくても、子どものように可愛らしく悪さをするのです。天真爛漫なずるい恋人ですね。

愛情に敏感で繊細なナルシスト

次に《男生女相》で、レスリーが自分のナルシスティックな性格を、どう語っているかみて頂きます。これはスタンリー・クワンのドキュメンタリーで、《夜半歌聲》および《覇王別姫》のシーンも出てきます。

問い:ずっと美形で知られる張國榮。《夜半歌聲》では顔を傷つけられる悲劇の役を演じた。俳優として、新旧作でどのような違いがあると考えるだろう?

哥哥:原作の可塑性と、傷つけられた後の人気歌手の運命と打撃を、疎かにしてしまったと思う。全てが表面的で、どちらかといえば愛情に重点が置かれた。旧作の方がメッセージが多いと思う。

問い:顔を傷つけるというのは、ナルシズムの別の象徴的表現と言えるでしょう。張國榮はナルシスティックな役を多く演じていますが、彼自身はナルシストでしょうか?

哥哥:Absolutely! ぜったいそう!

問い:彼がナルシスティックで影があり、柔弱な人物を造ったのでしょうか?それともそういった人物たちが、彼を作ったのでしょうか?

哥哥:僕には人にはない特長がある。見ている人も同意してくれると思うけど、僕は非常に細やか。特に愛情については、繊細で細やかに演じられる。

役を掌握し、観客をつかむ。

このシーンには二つのポイントがあります。第一はこれが95~96年に製作されましたが、哥哥はインタビューで大胆に、ロニー・ユーのやり方が表面的だったと言っています。隠さず言う、これは彼がマスコミに対して一貫してきたやり方です。それで疎まれることになっても。彼は非常に率直で、作品中で出来たはずのこと、すなわち傷つけられた後の描写が出来なかったといっています。ここから芸術への要求が高く、また芸術の素養も高い事が分かります。第二に自分を良く分かっていて、ナルシストか尋ねられると「絶対そう!」と答えます。他人にはない特長を誇らしく言います。繊細に細やかに愛情を捉え、演じられる。これは彼の生まれもった特長であり、だからこそずるい恋人でも受け入れられるのです。「ずるい男こそ、女性にもてる」。この演技で観客を掴んでいます。

ここまでを前奏曲にして、次に移りましょう。《烈火青春》と《欲望の翼》です。

《烈火青春》から《欲望の翼》まで

自己破滅過程の始まり

ナルキッソスの物語では、ナルキッソスが水に映った自分の影を見るのは、自己破滅過程の開始を意味します。最後には自分の影に害されるわけですが、この影は非常に美しいが、しかし幻像であり、捕らえられないものです。ここから彼は自己を探し始め、自己の幻像を、自己に対して特定の形態を仮想し始めます。自分が特定の形態を設定し、それに酔うのです。この心情は日常生活で、よくあることです。普通、人は自分に対し期待を持ち、こういう風になりたいという希望を持っています。また人が自分をどう評価するか非常に気にします。哥哥の繊細さ、敏感さについて言いますと、マスコミの報道からも分かりますが、彼は自分がどういう人間か良く分かっており、自分の特長はこうだと説明できる。彼はその特長は人にはないものだとも分かっている。また他人の評価も非常に気にし、攻撃されれば憂鬱に不愉快になっています。ナルキッソス的性格の人物は非常に敏感で、傷つきやすいものですが、彼の作品にはそういう人物が多くいます。

植物学的に水仙をみると、医学上麻酔の効果があり、麻酔の成分のある薬物を取り出せるそうです。これを人の性格に当てはめると、ナルシストは自分を麻痺させる事ができます。自分が如何なる姿であるか幻想を抱き、自分で設定した状況を信じ込めるのです。この設定はもちろん他者との関係にも影響します。彼の人生にも、生き方にも。《欲望の翼》と《烈火青春》のテーマと終結は奇妙なほど似ているといいました。こういう見方も出来ます。原因は譚家明パトリック・タムです。香港ニュー・ウェーブの重要な監督です。《烈火青春》で監督し、後に《欲望の翼》で編集に携わりました。そして《欲望の翼》の監督ウォン・カーワイは、パトリック・タムの影響を受けています。パトリック・タムの作品は強烈な色のコントラストで知られています。後で見て頂きますが、作品中レスリーの家の壁紙は深い青で、家具の白さのとコントラストをなしています。また両作品とも反抗的青年の死への過程を描いていますが、《欲望の翼》ではヨディは最後に死んでしまい、《烈火青春》では主人公は友人を殺されます。80年代映画から90年代映画の変遷です。

《烈火青春》の映像分析

《烈火青春》では不良少年ルイで、ティーンエイジャーで、興奮作用のあるシンナーを吸っています。模範青年からは程遠く、哥哥は同時期にデビューしたダニー・チャンとは異なりました。ダニー・チャンは常にお利巧な、純情な学生で、白馬の王子的な役でした。しかし哥哥の役の多くは、観客に容認されるものではありません。当時《烈火青春》は上映禁止とされ、香港映画の三級分類の制定を促進することにもなりました。作中の暴力と性愛のシーンが、社会道徳に反すると言われました。そしてレスリーは大胆にもその主役を演じたのであり、彼の辿った道のりが分かるでしょう。この不良少年には父親がいますが、いつも不在で画面には登場しません。父親不在で、母は早くに亡くなり、彼にベートーベン交響曲のテープを残しています。家には若い継母がいて、良くピアノを弾いています。これが彼の背景で、崩壊した家庭出身です。彼の日常は性愛、暴力、ドラッグ、日本製品、80年代の典型的青年です。当時の青年は、皆こういった生活をしていました。哥哥は憂いのある不良青年を演じ、その反社会的な青年像は批判されました。観客の多くが、役と俳優本人を同一視したのです。事実は監督も携わったスタッフも、等しく哥哥の演技を賞賛しました。彼は思い切りよく、批判される役を演じることを気にせず、その人物の性格を演じきりました。

お見せしたのは《烈火青春》の冒頭です。裕福な家庭の息子の部屋で、部屋の色使いが強烈なコントラストを見せています。メインの深い青は憂鬱を表す色です。このシーンでは哥哥にセリフはありません。彼はよく母が残したテープを聴いて、母を想っています。ここで母への感情が示されます。母が早世し、母の愛に餓えている。ナルキッソスの背景とも合致します。この作品の英名は《Nomad》、つまり遊牧民族のことです。作品中の少年達は、社会に反抗し、社会ルールに従わず、道徳に背き、自由を追い求めます。父の船に乗っていつかアラビアに行きたいと憧れ、自由自在に、何にも拘束されず、コントロールされず、批判されることのない生活を求め、放浪し、気儘に大自然の中で生活します。

《欲望の翼》の映像分析

この作品では哥哥は主役のヨディを演じています。同じく父母が無く、母は早くに彼を捨てています。作品の最後で、彼は憐れにも再度母に捨てられます。捨てられた人物なのです。養母がいますが、彼女との関係は、対抗的です。あとで養母とのシーンを見て頂きますが、哥哥の演技は絶品です。あのシーンは演技、表情そして台詞の組み合わさった効果です。彼の家庭も崩壊しており、彼は愛情に責任を負いません。なぜなら誰も彼に対して、責任を取ってくれないからです。結婚も承知せず、自分だけを愛しています。作中で哥哥は何度もある動作をします。鏡に向かって、髪を梳かすのです。殴り合いの後でさえも。これはナルキッソスが水中の自分の美しさに見とれていたのと同じく自分を見つめる儀式で、一種の自愛、ナルシズムの形態です。またヨディは自らある神話を語ります。自らを脚のない鳥にたとえて。彼自身がこの神話を創り出し、それに酔って自己満足しています。自己欺瞞でもあります。

次は彼が独り踊る場面です。レスリーだからこそ、あの様に独り踊れたと多くの評論家が指摘しています。他の人では、あの様には出来ないでしょう。考えてみてください。訳もなく独り家で、鏡の前で踊るわけがありません。自分を”美しい”と思っているのです。これがヨディの性格です。自分を”すばらしい”と思っている。ベッドで、自分を脚のない鳥だと想像するのは、大変ロマンチックで、我慢できなくなって起き上がり、独り踊る。そして自分を愛でる。これがナルシストの姿です。そしてキッチンで養母と駆け引きする場面です。養母は産みの母親の正体を絶対に明かそうとせず、彼は養母に詰め寄ります。これは彼の存在の危機です。レスリーの台詞のリズム感に注意してください。彼もそして相手の、30年代の名歌手であるレベッカ・パンも、さすがに歌手でもある人は、リズムを良くつかんでいます。セリフというのは奥が深いです。言葉のリズムとカメラワークへの敏感さ。どのカメラアングルで、どういう方法で観客にその時の感情を伝えるか。レスリーは声の演技でも抜群です。

ヨディの反抗は、愛で報復されます。彼は養母が自分に執着していることを良く知っています。そしてこの点で、養母に対抗しようとします。彼は不良青年の勘で、全ての女性が彼を愛することを知っています。こういっています。「人生の終りにも、どれだけの女性を好きになったか分からない。そして最も愛したのは誰か分からない。」女性が彼を愛するのは、彼女達の事情で、最後に傷つこうと自分の責任ではない。哥哥は観客も役もコントロールしています。そしてヨディの、この自己への固執が悲劇の源です。彼は生母を尋ねてフィリピンに行き、揉め事を起こし殺されます。実際、ヨディは矛盾を抱えています。自分を脚のない鳥と設定し、鏡に映る美しい自己に陶酔しているのに、どうして自分の身の上を尋ねなければならないのか?彼は自己欺瞞に気づいています。自分の実母が誰かそして、自分の出生についても分からず、自分が誰か分かりません。だから養母に詰め寄ってでも自分の出生について知りたい。これは自分を重視している事の表現です。”自分が誰か”を知らなければならない。知らないままで一生は過ごせないと執着します。ナルシストの性格が非常に固執的なことが分かるでしょう。他人の意見に耳を傾けない。彼が自分を冷めた目で見られるのは、もしかすると死に至るときのみかもしれません。

哥哥の演技のリズム感、身体の動き、音楽、シーンとの合致…ウォン・カーワイも高く評価していました。監督の要求に合わせ、その場の雰囲気までも創り出せる。こんな俳優は貴重な存在です。

ナルキッソスは死ぬ運命にある

両作品の結末は、共に死と関連があります。《烈火青春》では日本のスパイが殺戮を繰り広げます。突飛な感がありますが、しかしこの作品のメッセージ「社会に背を向け、自由を追求しても最後には幻滅に終わり、相応の代価を払わねばならない」ことを伝えています。最後のシーンは血生臭いですが、この強烈な色彩のコントラストに注目してください。また皆で雑魚寝したり、子豚と一緒に自然の中で眠ったりという解放的な生活、これは人生の解放です。自然への回帰が監督の理想であり、レスリー演じる主人公が追い求める自由です。しかしこれが社会に許容されるはずはなく、作中でも現実でも、許されません。ゆえにこの作品は上映禁止となり、当時の教育官であった司徒華はこの作品は社会風紀を乱すと言いました。社会が保守的であったことが分かるでしょう

《欲望の翼》での死については、いくつかお話できます。まずヨディは死ぬ前に、アンディ・ラウと話し、「お前のどこが脚のない鳥なんだ」と一喝されます。しかし彼は信じ続けます。撃たれてから死ぬまで、様々なことを回想します。作中ではヨディの生母が生まれたばかりの彼をどうしたかが描かれます。これがヨディの求めていた真相です。彼は生れ落ちた瞬間に拒否され、捨てられました。だから彼は、脚のない鳥は行き先がない、始まりから既に死んでいたのだといいます。ご存知の通り、彼はフィリピンに行き生母を訪ねますが、生母は会うことを拒否します。彼は背後からずっと自分を見つめる視線に気づきますが、振り返って、生母に彼の顔を見せようとはしません。これが彼の幻想「相手が拒否するなら、自分も拒否する」ですが、実際には彼は選びようがないのです。彼が始めに拒否されたのですから。作品ではヨディが人を拒否し続けるばかりですが、唯一彼は生母に2度拒否される。一回目は生まれたばかりの時に捨てられ、二回目は成長し、フィリピンまで尋ねても会って貰えない。これは彼の神話が幻滅するということです。ずっと出生に拘ってきた。しかし生母が彼を息子と認めようとしない。彼は生存の意義を否定されました。人に拒絶された傷みに、彼はアメリカのパスポートを買おうとし、撃たれます。ここに至って彼は相当に傷ついています。捨てられ背かれて、自暴自棄なります。これがこの作品の結末の意味です。最後まで、自分が生母に二度も拒否された事を受け入れられなかった。最後には異境の地で死を迎え、ナルシストは非常に孤独で、最後には自分自身しか残らないことが示されます。ここからナルシストが世間を知った瞬間というのは、彼の破滅の時だといえるでしょう。どうしようもない必然的な結末で、悲劇の完成です。悲劇でも美感が漂い、人の心を動かします。あたかもこれが彼の宿命であったかのようです。

世捨て人:歐陽峰《楽園の瑕》と 宋丹平《夜半歌聲》

ナルシストは実は、凡人をはるかに超えた聡明さと知恵を備えている

フロイトによると「ナルシストは実は、凡人をはるかに超えた聡明さと知恵を備えている」そうです。普通よりも多くの「自我」に分裂し、その多くの「自我」で世界と自分を見ている。深く考え、遠くまで見て、他人が思いもしないほどのレベルまで達しており、ゆえに他人からは理解され難いそうです。《欲望の翼》でカリーナ・ラウは、ジャッキー・チュンに「今ヨディが何を考えているか分かる?」と尋ねます。ジャッキーは「ヨディが何を考えているかは、誰も分からない」と答えます。ヨディは深く考え、人より早熟に世間を理解します。人の弱さ、世間の冷たさ、人間社会の問題をです。ナルシストはある種の超越した知恵と洞察力をもち、それゆえに他人より敏感です。そして世間を捨て、孤独に暮らそうとします。世界を見通し、それゆえに他人と一緒にいたくないのです。あとで程蝶衣の解説でお分かり頂けるでしょうが、彼は社会で何が起こっているか分かっている。しかしそこにまみれたくない。当今の時勢を知っているが、それに合わせようとはしないのです。なぜならナルシストは社会から、もしくは小さい時から父母や時代から置き去りにされ、愛を欠いている。孤独で、人々も彼を理解しないので、自分を愛することでそれを補い、失われた自己を救おうとするからです。

《楽園の瑕》の映像分析

この作品では世間を捨て、孤独に生きることで自らを突き放しています。哥哥演じる西毒・歐陽峰は、幼い時に父母を亡くした孤児で、孤独が運命づけられています。以前ある女性(マギー・チャン演じる)が彼に好意を寄せましたが、彼は拒絶します。約束を交わし責任を負いたくないからと。ストーリー中で西毒が「愛している」と言えるのは、東邪・黄薬師の代わりでいる時のみです。最後には彼は自分を砂漠に追放し、汚れた仕事をし、自らを利己的で、功利的な守銭奴に変え、他人の殺人を請け負います。これは自己を罰しているとも読めます。彼は満足の行くような自分のあるべき姿でいることが出来ず、全く別の姿に変り、人でなしのように装ったのです。

歐陽峰というのは非常に嫌な奴です。ナルシストで、自我が強く、功利的、残酷で情もかけないと、欠点ばかりです。作品を通じてウォン・カーワイはレスリーの声をうまく活かしています。作品は9割方レスリーの独白で語られます。西毒自身の話の他、他の人物のエピソードも歐陽峰が叙述します。レスリーの声の魅力を堪能できるでしょう。哥哥は感情、リズム、カメラワーク、そして音楽と全体を把握して語り、訴えるものがあります。台詞の意味のみでなく、その下に隠された文脈も含んでいます。この作品は文学的なもので、字面上のメッセージの、その下にさらにもう1つのメッセージが隠されています。それは、記憶の苦しみです。「酔生夢死」という冗談のような酒があり、記憶を消せると言いますが、実際には忘れてしまいたいと思った事は、かえって忘れられなくなっています。そして西毒は自らを砂漠に追いやり、後に兄嫁となった女性を忘れようとしますが、成功しませんでした。

香港の俳優の中で、退廃的な役をレスリーほど美しく演じられる人はいないでしょう。これはなかなか出来ないことです。彼は一種の魅力、美感を漂わせていました。これはレスリー自身に貴族的な素地があったからでしょう。同時期の俳優を一同に研究してみて分かったのですが、評論家の湯禎兆氏が発表されています。チャウ・シンチーとレスリーは全く素地が異なる。チャウ・シンチーは庶民出身で、「がさつさ」が特徴です。しかしレスリーは庶民階級ではありません。これが彼が批判される原因でもあるのですが、彼は貴族的で、中間階級か上流階級に属し、王子のイメージがある。デリケートで、繊細で。退廃的な役を演じる時には、18世紀の英国貴族の様な、優雅な王室の雰囲気と言ったものを漂わせます。

お見せした映像で、声の演出をお楽しみ頂けたでしょう。彼は台詞で自分の運命と、どのように人を拒否しているか明らかにします。ここで歐陽峰が自分の性格を良く理解していると分かります。この作品は武侠映画ではなく、実際はラブストーリーです。ナルシストも歐陽峰一人ではなく、慕容嫣/慕容燕、東邪、盲目の剣士もで、洪七公のみが違います。洪七公は妻を伴い、江湖をさすらいます。これも歐陽峰の羨むところです。歐陽峰は洪七を支配できなくなり、また彼のように妻を伴うことも出来なかった。作品中には水辺の光景と水に映る影が何度も出てきます。登場人物は皆、自己を愛します。歐陽峰と彼の女性の関係は、叶えられるべくもないものです。彼女は後に兄嫁となります。結婚当日の夜、彼女と共に過ごし、彼女は子供を産んだと言うのに、彼は彼女を抱きしめることが出来ません。ナルキッソスと同じで、自分に恋しているのに自己を得られません。歐陽峰は後に自らを突き放すことで、自分を罰します。最後に兄嫁が病没後、西毒は白駝山に帰ります。もう愛情が断たれ、懲罰も完了したからです。西毒は始終全体を見通しており、作品はレスリーの声に完全にコントロールされています。西毒は自分に変わる能力があると知っていますが、何もしないまま悲劇的結末を迎えます。そして自分の「孤星入命」の運命のせいだと言います。ナルシストは自分を安心させるために、運命を信じます。そしてあっさりと自分を砂漠へ追放しました。

《夜半歌聲》の映像分析

《夜半歌聲》の宋丹平は世間から身を隠し、明るい場所を嫌い、自己を欺いています。この美貌の人気歌手は、その顔を傷つけられてからの現実を受け入れられません。ヒロインにも会えず、劇場に隠れ住み、他人に自分を演じさせようとします。この作品は《オペラ座の怪人》を下敷きにしています。ロニー・ユーは欧米ナイズされた監督ですので、欧米の描き方で中国の物語を撮ろうとし、場所を1920年代の北京にしています。

レスリーの演じた宋丹平は人気ある歌手であり、音楽家で、建築家で、人々が恋こがれるアイドルでもありました。事件の前は美しい物を全て兼ね備え、劇場も彼が設計し、建設した物ですし、またハンサムで人気を集めていました。しかし顔を傷つけられた事で、一夜にして全てを失いました。彼の後半生はここから始まります。容貌を傷つけられたことは、自分の姿を水に映すのが好きなナルキッソスにとっては、重大な打撃です。傷つけられ、彼は「どうしてこの自分を愛せるんだ?」と叫びます。彼は世間から隠れ住み、人前には二度と現れませんでした。

レスリーは《男生女相》で、傷を負ってからの美貌の歌手の心理変化を十分捉えていない、これは台本の甘さと語っています。しかし、レスリーはこの心理状態を何とか演じようとしており、その憤怒、激情、逃避、自己欺瞞など、台本の制限を演技で突破し、彼の考えるレベルまで引き上げようとしています。

お見せしたのは、黄磊演じる韋青が宋丹平のナルシズムと自己中心さを、宋丹平が自分のみを愛しているのだと暴いたところです。もう1つは宋丹平が杜雲嫣に会いに行こうとし、窓に映った自分の姿を、雷光で見てしまった時です。彼はやはり耐えられず、逃げます。ナルシストは、鏡の中で、傷ついた顔の醜いほうを見る事には耐えられません。宋丹平について言えば、レスリーは自分の演技で台本が表面的になるのを防いでいます。例えば韋青が自分を演じて、杜雲嫣に会っている時、彼は感情を高ぶらせ、叫び、怒り、心に抑圧された感情を爆発させます。そして韋青に指摘されると、反論できません。彼は自分が自分のみを愛し、自分を欺いていることを良く分かっています。しかし自分に対して何もできません。

台本の演出を超える

俳優はその意識をもって、作品を進行させなければなりません。レスリーは幸運にも多くの優れた監督に出会いました。もちろん彼が優秀な俳優で、多くの監督が彼を起用したいと考えたからで、これは相互的なものです。レスリーが出演した50数部の作品の中には、名作とされるものが多くあります。名作を選ぼうとすれば、彼の作品が入るのです。この点で彼は遺憾に思うことはないでしょう。少し前に中国語名作映画100選が行われましたが、《覇王別姫》と《欲望の翼》を欠かすことは出来ませんでした。もちろんこれは彼が楽をして得たものではなく、心血を注ぎ、才能を努力によって開発して得たものです。《烈火青春》の未熟なレスリーは《欲望の翼》ではクローズ・アップでも演じられる俳優になり、リズム感、表情、台詞も満足のいくもので、観客は次のシーンを期待します。《夜半歌聲》では台本が不十分でしたが、彼は顔を傷つけられた人気歌手のナルシズム、そしてその後の心理を十分に理解して意を尽くして描き出しました。役に必要な深みを意識していたと思います。彼は常に意識をもち、自己への要求も高い俳優だったでしょう。そしてそのために、作品を何倍も良い物にできたのです。

時代から拒否された人物:程蝶衣《覇王別姫》

二重の意味で拒否された人物

本日最後にお話するのは《覇王別姫》です。これはすばらしい作品です。放映用に、レスリーが女装し、もう一人と”夫を取り合う”場面を選びました。これは虞姫を演じることを否定され、また本物の女性であるコン・リーが彼と覇王を取り合う場面です。彼は敗北しますが、それでも非常に傲慢で、気概を感じます。

ナルシストにとっては、水面に映った自分の姿は永遠に得られないものです。幻と消えてしまうもので、死をもって超越するか、昇華して得るしかありません。《覇王別姫》の程蝶衣は男性にも女性にもなれ、性別を超越しています。彼が欲した愛は得られぬもので、それには二つの理由があります。第一に彼は自分を愛するが、それは得られないこと。舞台で虞姫を演じる自分に恋しますが、これは得られません。第二に、兄弟子・段小樓も得られません。まず兄弟子に、人生と劇は違うのだとはねつけられます。さらに菊仙が兄弟子を奪おうとします。そして社会が拒否します。この時代同性愛は社会には許容されません。程蝶衣は二重の意味で、社会から拒否されます。

ナルシストは凡人より聡明だといいました。多くの自我に分裂し、多くの目で自分と世界を見ているからと。ナルシストが自我分裂することで、自分を愛せるようになるならば、分裂してこそ始めて、主体である自己が、客体の自己を愛することになります。作中で彼が言っている様に、「劇と人生を混同しなければ演じられない。人生を生きられない。」のです。程蝶衣は舞台上の自分と、舞台下で見ている自分に分裂しました。しかし舞台上、舞台下、劇中劇外の真実と虚像の区別をつけません。虞姫と化して、舞台上の兄弟子・覇王を愛し、それを同様に日常生活にも持ち込みました。

哥哥が語る程蝶衣

次は《覇王別姫》のメーキングです。中で哥哥は程蝶衣の性格と、自分がいかに演じたかを語っています。くれぐれも哥哥と彼の演じた役柄を、イコールだと思わないで下さい。ここから哥哥と役の関係、そして哥哥がどのように役の特徴を理解したかが分かります。

哥哥:性格について言うと、程蝶衣はナルシストでわがままで、しかし悲劇の人物です。幼い頃に母に捨てられ、60歳を過ぎて兄弟子に再会した。一生で楽しい時はほとんどない。最も満足できたのが、舞台で兄弟子と一緒に京劇・覇王別姫を演じている時だった。それが彼の一番輝いている時期だった。恋愛も全く実らない。後で菊仙に兄弟子を奪われ、彼は非常に虚しくなる。僕はその感情を、十分に演じなければと思った。

僕は程蝶衣にはなりたくない。僕個人は、彼になりたくない。正直言って、僕は彼より幸福だし。でもこの役は演じたかった。非常に重く、芸術性も高い映画だよ。気に入ってもらえるといいな。

《覇王別姫》撮影内外

哥哥が自ら程蝶衣の性格を分析しているのを見れば、彼が役の性格と演技方法を理解していたことが分かります。こういうエピソードもあるので、紹介しましょう。配役には初め、ジョン・ローンが考えられていました。彼は国際的知名度がありますから。哥哥はこの役を取る為に、雑誌《號外》に女形での写真を掲載して、アピールしました。後にジョン・ローンが事情により出演できなくなり、チェン・カイコーはレスリーを起用しました。哥哥は北京で京劇の訓練を受けました。京劇は別人が演じるように手配していたそうですが、撮影開始時には、歌以外は彼自身で演じられるようになっています。哥哥が非常に努力してこの役を演じきったこと、心血を注いでいたことが分かります。

また私は当時カナダにいて、この作品を見たのですが、前半の部分はあまり好きではありません。抑圧された印象が強いのです。これは監督の出身背景により、同性愛への怖れが非常に強いためでしょう。私個人は、程蝶衣が成長し、哥哥が演じるようになってからが好きです。一度哥哥が香港中文大学で講演した時、私は質問をしました。「映画での同性愛への怖れについて、同性愛を認め、性別について開放的な考えをもっている俳優として、どう対処されますか?」と。哥哥の答えは、チェン・カイコーの背景を考えなければというものでした。

監督は文革時代に育ち、ある部分考え方にもその影響があるのかもしれない。また映画は市場を考えなければならない。題材によっては微妙な問題もあり、タブーもある。俳優としては、役の感情を躊躇なく表現しなければならない。作品に制約があっても。例えば程蝶衣の感情には同意は出来ない。その抑うつとか入り組んだ事情とか。しかし演じる時には、役の性格を取り出してくる。”こういった感情にはためらいなく、虞姫の弱さは絶対変えない” 等、特徴を浮かび上がらせる。観客が役に同情した時、監督の持つ制限を突破できる。観客が作品を評価した時、程蝶衣を認めたことになる。程蝶衣は世間とは相容れないが、レスリーが演じると、程蝶衣は可愛らしい人物だと分かります。これがレスリーの魅力であり、能力です。

またハーバード大学の教授で、現在は香港中文大学で教鞭をとっている方ですが、彼がロサンゼルスでこの作品を見て、「張國榮が出ているから見られる。彼がいなかったら、見る価値はない」と言いました。私は彼がレスリーの演技の特性を見抜いたことに、感動を覚えました。映画名作100選の選考中、私は電影金像奨に《覇王別姫》の選考について書き送りました。なぜならこの作品が全くレスリーの演技に拠るものだからです。覇王の演技も悪くはありませんが、程蝶衣の演技に呑まれています。菊仙の出番も多いですが、程蝶衣の演技を脅かすものではありません。

《覇王別姫》の映像分析

次にご覧頂くのは、二人の女性が”夫を奪い合う”場面です。可哀想に舞台上の虞姫も程蝶衣に出番はなく、小四に代わられ、更に2人の女性にまた本物の女性が加わります。彼は二重に捨てられます。舞台上での虞姫は取って代わられ、舞台下では菊仙が兄弟子を奪いました。彼は敗北者ですが、しかし堂々とし、美しく破れています。このシーンでは程蝶衣は人の波に逆らって進もうとしています。世界は彼を捨て、彼一人の後ろ姿がある方向へ突き進み、他の人は別の方向へ向かっています。政治的圧力により、覇王は演じざるを得なくなり、菊仙が無理にでも演じさせました。身を守るためにです。程蝶衣は一度も保身を考えず、自分のやり方を堅持し、孤軍奮闘流れに逆らおうとしています。背景には今演じられている覇王別姫の影が映っています。彼はそこに入れず、舞台の下にいる。菊仙が同情して彼に外套を着せますが、彼は毅然と菊仙に礼を述べ、外套を落とします。これは敗北して見せる一種の気概、尊厳です。彼は同情は要らない。自分の問題ではないと言う態度を貫きます。次のシーンは、もう演じないことを決め、衣装を焼き払う所です。

メーキングの別のインタビューで、レスリーは「李碧華が僕を想定して、小説を2作書いている」と言っています。《覇王別姫》と《ルージュ》の十二少です。李碧華もレスリーがいなければ、十二少と程蝶衣はいなかっただろうと言っています。この二つの役には、多い少ないはありますが、哥哥らしいところがみられます。レスリーはナルシストで風流な人物を演じさせると天下一品で、小説家もそれを良く分かっています。レスリーはまた、80年代には程蝶衣はできなかったと言っています。香港のメディアは保守的で、マネージャーもレコード会社も、彼の不良っぽい恋人というイメージを壊すからと反対したそうです。社会も非常に保守的でしたし、容認しなかったでしょう。90年代に入り、《覇王別姫》を受けた時、彼は音楽活動を引退し、俳優業に専念すると決めていました。その演技への真摯な態度をみると、彼は”A Serious Actor”と呼ばれるにふさわしいでしょう。

程蝶衣は二重の意味で、卑しい人物です。母は妓女で、父が誰かも分かりません。出身も低いですが、演技になると「娼婦は無情、役者には道理なし」と、混乱を極めた時代にも、京劇の役をうまく演じることだけを考え、自分の舞台世界を持ち続けます。京劇の舞台は鏡に映った幻の様なものですが、程蝶衣はその虚像を現実世界の一部としてしまいます。それが虚像だと分かっていますが、目を覚まして気づこうとせず、虚像に浸ったままです。レスリーはインタビューで「程蝶衣の一生は不遇で、ただ舞台の上だけが、彼が輝き、幸せな時間だった」と言っています。程蝶衣はその中に酔い、人生と劇を区別せず、男性でも女性でもありました。性格も世間と衝突し、相容れません。兄弟子が一生共にいてくれることを望みましたが、それは叶わず、兄弟子も「あいつは芝居と現実を混同している」と批評します。彼の性格はわがままで、退廃的で、後にアヘンを吸うことでも分かります。しかし天真爛漫なところもあり、兄弟子に一生一緒に演じてくれ、一日、一時間欠けても一生とはいえないと、子どものような固執を見せます。彼は一生涯、初めから終わりまで、一生京劇を演じられれば満足なのです。実際望みは小さなことなのですが、叶えられませんでした。彼は常識を気にかけず、時流に合わせる事を知りません。権力におもねることもしませんでした。しかし英雄を見る目はあり、英雄を尊重することも知っています。後で禍いの元になりましたが、日本人の会合で歌い、青木三郎が京劇を好み、自分を評価したと知ります。青木が日本人であること、政治的に正しいか、また政治的立場は解しません。ただ京劇の芸術世界で、芸術のみを語り、政治というような些細なことは口にしません。彼は衝突のある世界を捨て、最後には悲劇を引き起こします。

レスリー本人は貴族的な素地と、女性的な面をもっていました。彼自身も自慢に思っていたように、彼は男装すると非常に「美青年」ですし、女装をすると「美女」で、めったにないことです。例えば私が好きな任劍輝は、男装をするときれいなのですが、女装ではそうでもありません。またレスリーには社会に対し反骨精神もあって、そのために程蝶衣の内心世界が演じられたのでしょう。チェン・カイコーはインタビューで、レスリーは非常に正確にそして鋭く、程蝶衣の心の動きを捉えていたと言っています。これは非常に重要です。

ナルキッソスの愛に殉じる運命

作品では次に、文革のシーンになり、最後には程蝶衣は自殺します。ナルキッソスは水中の世界は存在せず、所有も出来ないと知った時、自己への愛に殉じるしかありませんでした。舞台上の自分が最も輝くことを知っており、それが幻覚で、空虚な物だと分かっている。しかし一貫してそれを認めず、直面することを避けてきた。なぜなら一度破れると、幻滅し、死ぬしかないと分かっていたからです。劇の終わりに程蝶衣は「我本是男兒郎又不是女嬌娥」(自分は本来男で、女ではない)と歌います。この台詞は2通りに解釈できます。一つは監督の同性愛への恐怖で、男女の区別を正そうとすること。監督は「男性が女性の特徴を備え、女性が男性の特徴を備える」事を認めない。もしくは俳優は雌雄同体であり、双方の特徴を行き来できるが、性別の本来の分業に戻ったことです。もう一つは、程蝶衣は死ぬ運命にあり、彼の心そして生涯追い求めてきたものは、現実には得られない。所有できない。死すれば全てが完成し、所有でき、幻滅することもない。だから彼は虞姫の衣装を着て、京劇中の剣で舞台上で自殺する。彼は京劇に生き、京劇に斃れます。道に殉じるのです。反対に作品中の菊仙が死亡した時には、嫁入り衣装を着ていました。程蝶衣は虞姫の身分で覇王に殉じ、舞台に生き、舞台で逝きました。劇を実世界に持ち込めないなら、舞台上で終らせ、そこで保ち続けるしかなかった。これが自刎のシーンの意味です。

結びと質疑応答

結び

今日は何作品かを取り上げてお話しましたが、最後に7分に編集したビデオを見ていただく時間があればと思います。

私たちはレスリーの多様で多彩な演技を見てきました。時間の都合で、お話できませんが《ブエノスアイレス》も本日のテーマに含まれます。ナルキッソスたちは、全く同じ性格を持っており、哥哥もそのように演じているのが分かります。しかし完全に同じ性格とはいえ、それぞれの役には大きな違いがあります。《欲望の翼》のヨディは程蝶衣とは絶対に違いますし、十二少ともまた西毒・歐陽峰ともイコールではありません。皆等しくナルシストですが、それぞれ違った面を持ち、その表現や外見以外にも作品の種類、また哥哥の演技方法も異なります。

俳優は二種類に分けられます。まずは与えられた役をこなすタイプ。香港映画界の工業化および制限の為に、マネージャーが受ければ、俳優はその役を演じなければなりません。上手く行けば様々な役を与えられますが、そうでなければ同じ様な役を繰返し演じることになります。もう一タイプは自覚を持って努力し、役を勝ち取って自分のスタイルを確立するタイプです。レスリーは言うまでもなく後者です。例えば《覇王別姫》の役は彼が勝ち取ったものです。彼に上手く料理され、レスリーだから演じられ、他の人にはできない役もあります。これは彼が努力し続けた結果です。例えばもしレスリーがいなければ、誰が十二少、寧采臣、程蝶衣、ヨディ、宋丹平そして歐陽峰が演じられたでしょうか?代われる人はいません。時には監督や、劇作家が特定の俳優に合わせて、役を設定することがあります。その俳優がその役を上手く演じられるという確信があるからです。またレスリーは自分の役に特有の仕草、表情、歩き方、リズム、話し方などを創り出し、カメラに向かって表現しました。そこに監督、美術指導が手を加えることで、レベル高く、彼にしかできない役になりました。また哥哥は特に天賦の才能にも恵まれています。哥哥ほどの能力と意識を持った人は、世間にはほとんどいないでしょう。そして彼の演技の深度も類まれなるものでした。

ナルシストについて話す時、その役柄をレスリー本人と同一視してはいけません。私たちはレスリーが彼の演技、素質、表現方法、監督の指示や映画芸術を通じ、特定の性格の人物を創り出したことを評価できるに過ぎません。レスリー自身も自分は程蝶衣になりたくない。自分は程蝶衣に比べて幸せだし、現実をよく認識していると述べています。ナルシストはレスリーの50余作中の、一類型にしかすぎません。全てではなくその内のほんの一部でしかありません。他には書生の役・寧采臣、《男たちの挽歌》の熱血なキット、《家有喜事》のcampな演技、《流星》では単親の父親、《カルマ》では精神分裂者、《ダブル・タップ》では殺人狂を演じています。ここに挙げただけでも多くのタイプ、年齢や身分も違った人物がみられます。彼は演技に挑戦し、コメディも悲劇も武侠物も現代劇も、不良青年も子どもを抱えた中年男も演じました。まだ開拓の可能性があったでしょうが、それを目にする機会がないのが非常に残念です。今となっては彼が残してくれた、名作を味わうしかありません。

まとめとして、明報週刊が編集した哥哥の他の作品を流します。ナルシスト役の作品、そしてそれ以外にもまだまだ研究の余地のある映画藝術をたくさん残してくれています。

質疑応答

観客1:

映画の版権について聞きたいと思います。哥哥の初期作品は、まだDVDやVCDになっていないものがあり残念です。この問題については、ご存知ですか?また哥哥がヒゲをのばしていてもハンサムだし、かっこ良いと思います。そして哥哥を愛するファンの心の中では、彼はまだ去っておらず、いつまでも記憶中に生きています。

洛楓:

私もヒゲ・ルックでもかっこ良いと思います。ヒゲをのばしたからと言って、全ての人が不細工にはなりません。うっとうしい人もいますが。版権については、よく知りません。発行されないのは多くの場合、版権を誰が持っているか分からないからです。映画会社が倒産し、もう存在しないこともあります。また作品が監督の元にあるとも限りません。俳優の元には更にありません。そしてフィルムがあるかどうかも問題です。再版準備中や再版される作品もあるでしょうが、中には何故か日本版や欧州版しかないものもあります。例えば《烈火青春》の香港版はなく、出回っているのは日本版です。だから残念なことに、中文の字幕がありません。

観客2:

洛楓先生は《ブエノスアイレス》の何寶榮もナルシストだと仰いました。どうして詳しく仰らなかったのですか?

洛楓:

時間の関係です。もうすでに講演時間をオーバーしています!しかし私の著書の中では、彼をナルシストに入れます。何寶榮も自分を深く愛しており、だからこそ黎耀輝は気の毒です。そしてウィンはわがままで、見る者は彼をどうしようもない奴と思うでしょう。哥哥は非常にうまく演じており、苦労がしのばれます。《ブエノスアイレス》については、獎の審査員たちは、確かにレスリーに不公平でした。哥哥はこの作品で、最佳男主角獎受賞の期待を抱いて台湾へ行きましたが、残念な結果でした。偏見があったと思います。お話したように、レスリーが演じた役の多くは世間に反抗し、反社会的で、情を持ち合わせず、親不孝であったりします。そのマイナスがあること、まっとうな生き方ではないことで審査員には悪い印象でした。審査員は苦労の末に幸せをつかむ人物が好きです。またレスリー自身も出身が良いことを感じさせます。もちろん彼の家庭背景や、人気が出る前に下積み時代があったこと、人気が出ても野次られたことは知られています。しかしここには目を向けない人がいます。出身からして苦労して見えると多分に同情しますが、レスリーには一切が簡単に出来たように考える。彼の貴族的な雰囲気、デビューするとすでに王子の様であった事は、先ほど分析しましたが、実は彼がそれぞれの役について考えぬいて創り上げ、演じたものです。彼の不断の努力の結果です。八十年代には影のある不良青年を演じ、観客には受け入れられませんでした。社会もメディアも依然開放的でなく、保守的で偏見を持っていました。レスリーも社会にわざわざ取り入ろうとする性格ではなく、なかなか受け入れられませんでした。彼を評価し愛する人は、彼を理解する。彼を理解せず嫌う人は、私も彼と同じ意見なのですが、「気にかけない」でしょう。