The 5th Leslie’s Seminar
(Translated by Miho)
日期:2005.04.03
地點:香港九龍灣國際展貿中心演講廳
主辦:哥哥香港網站
講題…..張國榮後期的藝術探索
講者…..盧偉力(大學教授)、林紀陶(電影編劇及影評人)、榮雪煙(內地導演)
はじめに
盧偉力:
張國榮が我々のもとを去って2年がたちましたが、彼は流星の如く、時には天空に姿を現わしています。そして彼は永遠に私たちの空で輝くでしょう。彼のいる空は我々の心の中にあり、つまり我々の心は空です。今日は私以外に二名の方にお話頂きます。まずは香港の映画評論家であり、映画の脚本家でもいらっしゃる林紀陶さん。そして中国よりいらっしゃった若き監督、脚本やプロデュースにも関わっていらっしゃる榮雪煙さんです。 張國榮は若くしてデビューしました。70年代の末から2003年まで、彼の芸能生活は四半世紀にも及びます。彼は歌を始めとして、演技、映画の脚本や監督にも挑戦しました。 40余年の生涯において約3分の2は芸術創作に関わっていた事になります。以前分析して頂きましたが、この私たちが愛してやまないアーティストを追悼する活動を、如何に意義のあるものにするか?その方法の一つが彼の芸術創作について語り合うことです。そして深めていくこと。張國榮がどういう明星だったかを表面的に語るのではなく、彼が具体的にどのような創造を行ってきたかを討論していく事です。今日は “張國榮の後期の芸術創造”というテーマで、この愛すべき友人について語り合いたいと思います。テーマに入る前に、まず彼の芸術創作の段階について林紀陶先生より、お話頂きます。
張國榮の生涯における三段階
最高なのはやはり哥哥
林紀陶:
盧先生、哥哥が香港映画界で重要であり、また特別である事を仰って下さり、ありがとうございます。まず最近感じた事をお話したいと思います。私は映画評論家として、また本職は脚本家なのですが映画製作にも携っています。また哥哥と共に成長してきた映画人たちと仕事をしています。例えばある作品、現代劇でも時代劇でもですが、キャストを決める時に、この役に最適なのは哥哥なのにと思い、深い悲しみに襲われることがあります。香港人が撮ろうとする作品は、それが時代劇でも現代劇でも、若しくは香港以外で撮影されても、香港人の作品と言えるでしょう。こういった作品では、我々に関係の深い話題が語られます。香港のスポークスマンとして、最も適役なのは哥哥でなくて誰でしょう?香港の映画界は、彼なしではやっていけないのです。
80年代”弟分”のイメージ
林紀陶:
哥哥の映画人生を考える上で、78年から出演していますが、本当の意味での主演は80年の《喝采》からと言うべきでしょう。彼の映画人生は3段階に分けられます。80年の《喝采》から、初期にはテレビ出身、またはデビューしたてという雰囲気で、特に不良青年の役が多いです。彼自身はアイドル歌手という立場で、不良青年を演じていました。初期の作品で見るべきものは《烈火青春》《喝采》等です。こういった役はアイドル歌手が必ず通る道と言えるでしょう。 “兄貴”か”弟分”か、という視点で分析しますと、当時の張國榮は弟分のイメージでした。皆さんご存知の様に、当時の”兄貴”は周潤發です。張國榮は映画でも、息子を演じています。皆さんも親の家にいて、ちょっと反抗的な青年といった80年代の役柄の印象をお持ちだと思います。
90年代幅の広い演技
林紀陶:
哥哥の90年代は映画業界人と共に成長したと言えるでしょう。任侠映画を得意とする徐克や呉宇森は、 80年代からユニークな作品を撮っています。90年代に入り、”小市民”を撮る監督が現れました。王家衛、陳可辛、李志毅、陳嘉上などです。彼らは香港ニューウェーブの、第二世代監督です。彼らが張國榮の潜在能力を発掘したと言えるでしょう。周潤發は、80年代に香港社会が変化を求めたイメージの代表です。傑作《男達の挽歌》には、周潤發のこういったイメージが反映されています。またこの作品では二人の”兄貴”(周潤發と狄龍)とその”弟”が出てきます。この弟は張國榮が演じています。
90年代の張國榮には変化が明らかです。王家衛の《欲望の翼》が分水線だと言えるでしょう。この作品は60年代の若者を描いています。 60年代を背景に選んだのは、60年代が香港人の意識の基礎を形成した時期と言われるためです。70年代にはそれが成熟期を迎えます。 60年代にはブルース・リーがいますが、彼はアクションスターです。王家衛は張國榮を60年代の”不良青年”に選びました。第二世代の監督たちは、張國榮を好んで起用し、作品を語らせていますが、張國榮がもう80年代の”弟分”ではなく、幅を持った演技が出来、可塑性も高く多様な役をこなせると分かっていたからでしょう。またその中には、今でもそうかもしれませんが、他の人には出来ない役”賈寶玉” (訳注:清代の小説「紅樓夢」の主人公。大貴族の貴公子)も含まれています。私は張國榮が演じる賈寶玉が最高だとは思いませんが、賈寶玉は張國榮に良く似ています。しかし張國榮は賈寶玉よりもより立体的です。90年代の張國榮は香港という地域を代表するだけではありません。香港社会の価値観の変化に伴い、またより多くの人が香港を知るに当たり、俳優についても知っていきました。張國榮の”幅広さ”は、香港社会の価値観の多様化にともない、香港と言う一地域だけの人物ではなくなったのです。
90年代の香港の工業及び映画産業は、中国から切り離されては成り立ちませんでした。中国との結びつきで、香港映画はこの時期に大きな市場を開拓することになり、そしてこの状況が、張國榮の変身をも促しました。彼の演技はより広いものになったのです。《欲望の翼》は香港の野心的な青年が、香港に留まることを良しとせず、彼のルーツを求めて飛び出す様子を暗示しています。この時期張國榮自身も香港映画のみならず、中国本土の作品にも出演しています。陳凱歌監督の《覇王別姫》及び《花の影》、葉大桜監督の《追憶の上海》です。中国の監督にも張國榮がもっとも可塑性が高いと映ったことでしょう。また張國榮は中国の俳優にはない資質を備えていました。この時期の張國榮はすでに香港という地域に捕われず、彼の演技の幅と役に対する適応性は香港以外の地域でも発揮されていました。
後期、深度を追求した演技
林紀陶:
第三段階は97年以降の時期です。哥哥は広さと深みを持つ役を求め、また俳優として演技者として更に映画創作に、製作に深く関わるようになりました。俳優から製作スタッフに、監督や編集まで携わろうとしていました。この時期多くの監督が、張國榮は役柄の意味を良く理解しているだけでなく、演技に深みがあると指摘しています。爾冬陞監督の三部作《色情男女》《ダブル・タップ》そして《カルマ》を見て下さい。役の両面性に注目して下さい。立体的というよりもっと複雑な役、両極性を持つ人物を演じています。これは《色情男女》でも感じられますが、演出意図はもっと現実的です。映画業界人が現在直面している市場の状況と、彼の映画製作への想いの葛藤。香港映画人の映画製作への想いを良く反映しています。哥哥は作中の監督の役を実にうまく演じていると思いませんか?爾冬陞監督は張國榮に自分の分身を演じさせています。爾監督は、《三少爺的劍》の”燕十三”の役に張國榮を起用できなかった事を、ずっと後悔しています。この作品は監督にとっては非常に重要な作品で、この作品で映画人になったとも言えるでしょう。
爾冬陞監督は哥哥のこういった”両極性”を引出し、これは90年代に哥哥の演技が”幅をもつもの”から”深度をもつもの”に発展したことを表わします。《ダブル・タップ》はプロの射撃手の役で、追跡劇と愛情を表現しました。この役で最佳男演員奨を獲れると思いましたが残念な結果でした。しかし俳優の演技が観客に認められる事は、奨獲得よりもっと重要です。後の《カルマ》では精神科のドクターでありながら病人でもあるという難しい役でした。この役は現実の生活でも忘れられない記憶となり、夢に出てきたかも知れません。この難しい演技、複雑極まりない役、絡まりあった物語を、彼は見事に演じきりました。
この三段階で、哥哥は変化を続けています。最後に私が言いたいのは哥哥は”立体性”が非常に高いということです。悲しいかな、哥哥の未来の役を製作する事は出来ません。哥哥は時代劇でも現代劇でも、香港という地域の重要な人物であり、また中国の全く自分とは異質の役でも彼は精彩な演技を見せてくれました。時の流れの中で、哥哥は過去と現在だけの人物では有りません。彼には未来の姿も有ります。香港に未来の映画を撮る力、またはSF作品を撮る力があるなら、張國榮はキャスティング上、重要な人物になるでしょう。
盧偉力:
林紀陶先生、張國榮の三つの段階を分析してくださり、ありがとうございました。第一段階は不良青年の役が多く、アイドルでした。第二段階は自分の演技の可能性を拡大した時期。第三段階は演技を深め、難度の高い役に挑戦した時期でした。両面性を持つ役に挑戦し、また見事に演じ切りました。
先ほど林先生もおっしゃいましたが、張國榮は演技者としての他、映画創作にも携ろうとしていました。次の講演者は榮雪煙先生です。張國榮が晩年に手掛けた、脚本や編集や監督や、演技以外の面についてお話頂きます。
張國榮の監督意識を探る
監督になりたい想い
榮雪煙:
1987年から哥哥は監督したいと語っています。「監督は作品の魂であり、自分の伝えたい想いを盛り込む事ができる。俳優としてはその役を経験出来るが、映画作品全体の魂に影響してはいけない」からと。87年歌壇を引退してから、最後まで哥哥は監督になるべく、歩み続けました。金策も始めていました。例えば97、98年頃には《再世紅梅記》《林鳳傳》の準備をし、《追憶の上海》を撮影している期間には、あるスターに関する物語になる予定だと言っていました。彼の監督への想いはすでに夢でなく、実現に向かって動いていました。
哥哥はMTVを自分で監督したり、またMTVに自分の創作意図を盛り込むようになっています。例えば彼の創作意図に基づいたものとして《夢到内河》《潔身自愛》。彼が監督したものとして《イ尓這様恨我》《枕頭》及び爾冬陞監督の《色情男女》での一場面があります。昨年の検討会で、羅志良監督は《色情男女》の徐錦江(チョイ・ガムコン)と舒淇の場面は、本当に哥哥自身が監督したとおっしゃいました。また哥哥が積極的に撮影をさせてくれるよう頼んだと。哥哥は「作中の監督として、劇中の作品を僕に撮らせて欲しい」と言ったそうです。羅監督も安心して任せたそうですが、撮影の結果も上々でした。また陳可辛監督の《君さえいれば2》でも、一部は哥哥が撮っています。 2000年香港電台と”喫煙與健康委員会”が合同で製作した短編《煙飛煙滅》、これは哥哥が人生において完成させた唯一の映画作品です。編集・監督・主演全てが哥哥の手になるものです。始まるとすぐ「張國榮作品」という文字が現れます。この作品を自分自身の作品だとみなしていた事が分かります。続いては、映像表現及び監督意識から簡単に《煙飛煙滅》を分析してみましょう。まず哥哥のインタビューをご覧ください。
【僕の初めてのBaby】
哥哥:
撮り直しをした部分もあるよ。見直してもっと幅を出したり、情感を高めたいと思ったから。でも大変だとは思わなかった。「有難い」ことは沢山あったよ。出演してくれた多くの友達。例えばテレサ・モウ。あの時彼女は妊娠中だったけど、それは問題じゃないと言ってくれた。お腹を見られたって、医者が妊娠していたって良いでしょ!といった。葉徳嫻も。劇中で彼女の声が聞けるなんて。ちょっともったいをつけておこう。どうして彼女は声だけか分かるよ。多くの友達がサポートしてくれた。意義の有る事だからと。
謝らないといけない人もいる。短篇だし、全ての俳優に焦点を当てる事はできなかった。主役は4人だし。でも短いからと断る人はいなかった。梁詠琪、谷徳超、容祖児、陳冠希たち。ファンは短すぎると言うだろうけど、ストーリーの都合上そうなってしまった。いつかすばらしい俳優たちと友達とで長編を製作して、お目に掛けたいよ。
問:
これから皆さんに《煙飛煙滅》を見て頂きますが、特に注目すべきなのは、どこでしょうか?
哥哥:
これは僕の初めてのBabyで、期待してくださる方もいらっしゃるでしょう。もし期待にそぐわなければ、ごめんなさい。これは香港政府、香港電台そして香港人のための、有意義な仕事です。この作品を気に入って、感動して貰えたら嬉しいです。また大切なメッセージ「劇はまた演じられる。しかし人生は一度きり。伝えたいのは煙草を吸わないこと、もしくは吸う量を減らすこと。喫煙は健康に影響を及ぼすから。」を理解してくれたら嬉しいです。
社会の為の短篇の難しさ
榮雪煙:
哥哥はインタビューで、「張國榮作品」の文字を見たとき、自分の初めてのBabyに、感激で涙が出たと言っています。
《煙飛煙滅》は社会の為の作品で、また短篇撮影には難しさがあります。短い中でストーリーを語り、まとめなければなりません。短い上に公益性が有り、話を明確にする必要があります。《楽園の瑕》のように、見終わっても何を言っているのか分からないのではいけません。主題も限られ、その制限の中で腕を振るう事になります。今回は喫煙が健康に悪影響を及ぼすという主題ですから、ファンタジーにも出来ませんし、説教でもいけません。短篇撮影は難しいものですが、哥哥は非常にすっきりとまとめています。決して目新しい主題でもなく、シンプルなストーリーですが、それを如何に映像言語と撮影テクニックを用いて具体化したか。そこに彼の力量が見られます。話の展開が巧みです。例えばドクターが語る形で(訳注:喫煙は有害という) メッセージを伝えており、理論を述べたてるのではありません。また遊び心も満載です。例えば容祖兒がジャンクフードを食べている所を見られたとか、梅艷芳が陳冠希を諭したりするシーンで飽きさせません。啓蒙映画には珍しいことです。《煙飛煙滅》は”2本線”で成り立っています。この2本の線にはそれぞれ意味があります。1本目は作品の前半は独立したドラマであり、後半がインタビューであること。ドラマからインタビューへ徐々に移っていき、2線は別のものですが連続して存在しています。そしてドラマのなかに2本目が見られます。1線は張國榮、アニタ・ムイと子供で、2線は莫文蔚とワン・リーホンです。この2線が絡み合って内容が豊かになっています。
この短篇から見るだけでは、張國榮の長編の監督としての力量を語る事はできません。しかし彼の監督としての素質、そして映像を通して語る力が感じられます。
《煙飛煙滅》の映像分析
榮雪煙:
まず《煙飛煙滅》の部分を見て頂き、その後編集テクニック及び、表現方法を分析しましょう。
~放映~
ご覧頂いたのは始まりの部分です。梅艷芳がタバコを吸っている唇からはじまり、カメラが引いていくと彼女の全身が見えます。もしアニタが叱りつけている場面から始まるとすれば、カメラをオフィスの外から内へ進めていくようになるでしょう。しかし彼は直接正面から撮り、次のシーンに繋げ、またずばり主題を提示してみせました。
またアニタとカレンが哥哥の家にいるシーンですが、その前の場面はアニタが難題を解決し、皆楽しく旅行に出掛けるという所です。カレンとリーホンの愛は芽吹いたばかりで、マネージャーのアニタが二人の恋愛を許した。非常にハッピーなシーンです。このシーンはまた幸福のリズムから悲しみのリズムに変る場面でもあります。もし幸せが悲しみに変ったと直接言ってしまうと、唐突に感じるでしょう。観客はまず子供の背中を目にしますが、何が起こったかは分かりません。子供が鼻を押えて「パパ!ママ!」と呼ぶのみです。一瞬の静けさがあり、その後慌ただしい足音が聞えます。観客は何が起こったか分らず、慌てた様子を見て、知りたいと思う気持ちを掻き立てられます。そしてワン・リーホンがキッチンに飛び込んで来て、冷凍庫から何かを取り出して駆け出す所を見ます。ここで子供が鼻血を出したに違いないと分ります。観客に期待をさせながら、幸福から悲しみへスムーズに展開しています。それぞれ違った旋律ですが非常に自然に移行させています。
次はドクターが両親に説明するシーンです。このシーンは学生が先生の前に座っているように感じられませんか?ここでドクターの口を借りて喫煙の害を説きます。もしただ喫煙の害を言えば、説教しているようなものです。しかし医師の口からこの理論的な主題を言わせます。そして全体の中でこのシーンのみが、説明的で教条的です。後に葉徳嫻の後ろ姿が写るシーンがあり、葉はアニタに必ずしも彼女の喫煙のせいで子供が患ったのではないと言います。ここでも啓蒙映画の枠を外しています。直接喫煙の有害さを説くのではなく、医師に言わせる。ここが彼の巧みな所です。
最後は手術室のシーンです。アニタと張國榮は外におり、中では子供の命を救うために手を尽くしています。ここでの上手さは手術室内にカメラを置いた事です。カメラが外なら泣き叫ぶ声しか聞えないでしょう。ここでは手術室を対象として捉えています。手術室内では動き回り、アニタと張國榮は外で動けずにいることに注目して下さい。動と静の強烈な対比を描いています。医師は忙しく立ち回っていますが、声はありません。非常に辛く哀しい。しかし声はありません。両親の様子と心情を見せ、それを対比を用いて表現しています。脈拍を示す”トゥ・トゥ・トゥ”という音が聞こえ、医師らが急いでいるのが分ります。その後暗転し、次にリーホンの乗るエレベーターの”チン!”という音が響き渡ります。緊急の場面を静かな場面に切り替えるのみで、取りたてて何かを写す事なく、際立てています。
何気ないシーンですが、彼がストーリーを語る技巧を持ち、全体の流れを把握し、また自分が何を撮りたいのか、それを如何に表現するのかを良く理解していた事が分ります。短篇と長編では違いもありますが、この作品の分析からだけでも、彼が撮影テクニックに習熟し、作品をコントロールしていた事が分ります。《煙飛煙滅》には美しいシーンが多いです。これは意図的なものです。監督として端々にまで気をくばり、非常に美しく仕上げています。
哥哥が撮りたかった物語
榮雪煙:
哥哥は《偸心》という作品を撮ろうとしていました。《演藝圏》03年5月号にあらすじが出たので、ご存知の方もいらっしゃると思います。女優・寧静(ニン・チン)が記事を寄せています。二人の男と一人の女の話で、女は良家の娘で、厳格な母がいます。彼女の家の上の階に男が引越して来て、彼が弾くピアノの音が毎日聞えるようになります。彼女は彼に近付き、二人が関係した後、彼は逃げます。彼女は母の意見で、従兄弟に嫁ぎます。哥哥は寧静に、最後に男はピアノは弾けず、実は音楽を聴いているだけだったと分かると言ったそうです。この結末から主題を象徴化して伝えようとしていることが分かります。どの様に撮影するつもりだったかは分りませんが、イメージ化して伝えるという特徴が分ります
《煙飛煙滅》の創作思想
盧偉力:
《煙飛煙滅》は張國榮自身が編集、脚本、主演、監督を手掛けたものです。それゆえにこの作品は彼の創作理念の根幹を表わしていると言えるでしょう。先ほど榮先生もおっしゃいましたが、撮影テクニックから見ても、その潜在能力を考えても、彼が長編を撮れば良い作品になったと信じます。さらに《煙飛煙滅》に見られる重要なポイントをもう二つ追加したいと思います。
その第一は張國榮が”倫理”及び”愛”を非常に重視していたことです。例えば禁煙を勧める時に「喫煙はあなたの愛する人に影響します」と言っています。喫煙が健康を害することは《煙飛煙滅》ではメインメッセージではありません。つまり”愛”がもっとも説得力があると考えていたのです。《煙飛煙滅》はジェイコブ・チャンがプロデューサーです。1999年には《流星》を撮影し、2000年には《煙飛煙滅》で双方に幼い子が出演しています。幼い子供は未来の象徴です。何故《煙飛煙滅》で子供のアップのシーンがないのか?それは子供が、未来を象徴するシンボルであるからです。現世代がタバコを吸えば、未来がなくなると言うことです。
第二に作品中で、彼は喫煙を批判することはしていません。例えば張國榮とアニタ・ムイがソファーにすわり紫煙をくゆらすシーン。張國榮が運転しながら吸うシーン等など、非常に美しくカッコ良く見えます!しかしそうであるからこそ、この映画が重要なのです。彼は喫煙がカッコ悪いものだとは言っていません。そうではなく「喫煙は悪影響を及ぼす。喫煙を楽しむことは出来るが、周囲の人を愛することとは対立する。2つを秤にかけてみて考えて!」彼はこれを創作理念としており、けっして説教のような方法は取っていません。
後期の作品における張國榮
後期の作品にみえる価値観
盧偉力:
先ほど《煙飛煙滅》での彼を見て頂きましたが、それを次にお話しようと思います。この姿は後期の作品で非常によく見られる、ひげを生やしたものです。インタビュー場面ではひげはありません。《流星》では落ちぶれた男の役です。ハンサムな役ではありません。彼自身はもちろん非常にハンサムですが、美しくない状態を演じようとしています。《追憶の上海》ではもっとひげは長く多くなり、《星月童話》では上唇にひげです。彼のレベルの俳優になると、自分の演じる格好について監督に話しができるようになります。 1999年以降の作品では、全てその姿で登場しています。
《追憶の上海》では、彼の二面をみられます。一面は精力的な革命者で非常に感動的な演説を行ないます。その半面、彼は病人であり、冷汗を流して苦しみます。《星月童話》では囮捜査官です。黒社会で生き、スマートとは言えず、話し方も下品です。《追憶の上海》と同じ様に上唇にひげをはやしていますが、性格は違います。《星月童話》でチンピラに殴られたり、芸術上美しくないですが、どうしてこうした役を好んで演じたのでしょう?こういった役に如何なる価値を見出したのでしょう?私はこの時期には彼はアイドルを脱却したかった。アイドルとしてでなく、一人の俳優として観客に向かいたかったと思います。それも平凡な俳優ではなく、自分の性格を演じるのでもなく、その人物を演じ切りたかった。後期、彼は性格俳優を目指しました。革命者、囮捜査官。落ちぶれて疲れた中年男。子供を連れていて父、母であり、子供の友達でもある様な。また《ダブル・タップ》での二つの顔を持つ男、《カルマ》では更に心理的に複雑な人物を演じています。性格俳優を目差し、難度の高い役や精彩を放つ役に挑戦しつづけています。香港は張國榮を失ない、銀幕から多くの大切な登場人物たちが消えてしまった可能性があります。
性格俳優への道を突き進む
林紀陶:
1997年以降の演技には大きな転換が見られます。自分の性格に似通っていない役を演じ始めたのです。「彼の性質でない演技」と言う所が重要です。
盧偉力:
俳優の演技は三種類に分類できます。一つは類型俳優です。笑わせるとか、悪辣だとか、アイドルも類型の一つでしょう。例えば青春アイドルなど。不細工もです。サンドラ・ンはデビュー当時不細工ばかり演じていましたが、彼女は決してブスではありません。もう一つは気質演技。俳優の気質に似た性格を演じるもので、感傷的というような気質を滲ませます。《欲望の翼》《チャイニーズ・ゴースト・ストーリー》などがその例です。張國榮であるからこれらの演技ができたのであって、他の人では成り立ちません。最後が性格俳優です。作品中の人物の性格を演じることを目標とし、俳優自身の気質に近いものばかりではありません。例えば張國榮はチンピラではありませんし、《カルマ》ほど難しい人でもありません。しかし複雑な役を演じています。張國榮はアイドルから素質俳優を経て、性格を演じ切ってみせました。
性格興性向的誤解
林紀陶:
中国映画三作を分析しますと《さらば我が愛 覇王別姫》は張國榮の素質で演じています。《花の影》も素質ですね。《追憶の上海》は違います。ここでの演技はすばらしく、より高いレベルに到達しています。97年がターニングポイントであるというお話に付け加えたいと思います。あの年彼は《ブエノスアイレス》に出演しています。奨にノミネートされたのはふたりでしたが、張國榮は受賞できませんでした。張國榮は自分を演じていると言った審判がいたからです。哥哥は非常に気分を害していました。「《ブエノスアイレス》のどこが僕なんだ? 僕があんなに我がままで、自暴自棄で残忍と言うのか!」と憤っています。《ブエノスアイレス》では素質を演じたのではありません。先ほどごらん頂いた《煙飛煙滅》でのインタビューシーン。あれこそが張國榮です。《ブエノスアイレス》の役は演技ですから、彼自身だとは考えないで下さい。
盧偉力:
性格と性的嗜好の違いを誤っている人もいます。嗜好が異なるからと言って、性格も異なるとは限りません。性格というのはある人の世界に対する見方です。例えば、彼が多様性のあるこの世界を愛していたこと、自分と周囲の人の関係、自尊心の強さなどです。性的嗜好は周囲の人に同性を選ぶか異性を選ぶかということです。その嗜好と性格は別のものです。《ブエノスアイレス》について、張國榮が自分を演じたという論調がありましたが誤りです。
《カルマ》の演技の重層性
林紀陶:
次に《星月童話》《追憶の上海》《カルマ》のシーンをご覧頂きますが、これは哥哥の素質ではなく彼の卓越した演技です。
盧偉力:
《カルマ》をご覧頂きますが、このシーンは彼の演技の中でも最高傑作の一つだと皆さんに認めて頂けるでしょう。俳優の演技でもっとも重要なのは表情です。普通監督は状況を映した上で、俳優に演じさせます。しかし《カルマ》のこのシーンは表情の変化のみです。7分間という短い間にこの役では彼女と同居を始め、口げんかをし、その後催眠状態になり分裂します。催眠状態の自分と、故人となった以前の彼女による抑圧状態です。表情の変化を良く見て下さい。このシーンを表情のみで演じ切っています。そして催眠から醒め、昔の品々をみていた事が分かり…と重層的に変化していきます。これこそが後期の張國榮の演技の最高峰であり、正に性格俳優の演技だといえるでしょう!
張國榮の将来の作品
誠意のある作品を撮りたい
盧偉力:
林先生は張國榮が撮影しただろう作品を見られないのは遺憾だとおっしゃいました。榮雪煙先生も彼の監督もしくは映画製作者としての潜在能力について言及されました。もし張國榮が今もいれば、どんな役、どんな人物を創作したでしょうか?
榮雪煙:
私は哥哥の後期の作品では、心理的問題をテーマにしたものが多い様に思います。インタビューでこう述べています。「僕は香港映画に大きな希望を持っている。皆が誠意を持って作ろうとすればね。今はオファーを受ける基準も、誠意が感じられる作品かどうかだよ。」誠意が感じられるかが、彼の基準でした。そして引き受けた作品には、心理状態の演技が多いです。《カルマ》《ダブル・タップ》のような。彼が自分の力を発揮できる役、俳優として創造空間がある役を望むとも言っていましたね。
盧偉力:
誠意について言いますと、彼が《流星》をHK$1で引き受けたことは有名です。この作品にも真剣に取り組み、いい加減な部分はありません。出演理由は彼が「次の世代の為に!」という重要なメッセージを理解していた為だと思います。《煙飛煙滅》のシナリオ作製でも「次の世代の為に禁煙を!」と訴えています。未来に憧憬の念を抱いていたことが分かります。
《楽園の瑕》の登場人物たちの未来
林紀陶:
今後映画を撮るとしてどのような役が張國榮にふさわしいかですが、私は実在の役を挙げたいと思います。《2046》の2047列車に乗っている木村拓哉です。この役は張國榮です。なぜなら《2046》のトニー・レオンの役が張國榮を表現しているからです。《2046》は《楽園の瑕》の張國榮に対応しており、「鏡に映った」物語なのです。疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。ウォン・カーワイは《楽園の瑕》で実験を行ないました。《欲望の翼》で張國榮が鏡に向かってひとり踊るシーンを主題に《楽園の瑕》にまで発展させています。《楽園の瑕》は《欲望の翼》の古装編もしくは心象編です。観世音菩薩が見ているものは全て自分自身を見ているのだと言います。トニー・レオンは全て鏡に映った張國榮です。張國榮は”西毒”ですが、彼が見る”東邪”は彼の未来で、悲劇で幕を閉じる。もう一つの可能性は”北丐”であり、妻と砂漠を去るという喜劇的な結末を迎えます。作品中でも”東邪”が”西毒”であると語られ、慕容嫣にとっては同一人物です。作品に登場する英雄は皆同一人物であり、彼らは互いに出会った後同様の感触を持ちます。非常に心理性の高い演出です。《2046》ではそれを反転させ、もう一度ストーリーをたどっています。そしてトニー・レオンが演じています。この興味深い点は、多くの評論家が指摘しています。
時代や民族の特色を反映した演技
盧偉力:
もし張國榮が今いたなら、どんな創造活動を行ったか? 私はよく知られている俳優を例に考えてみたいと思います。例えば”趙丹”。彼は30年代、 20代で《馬路天使》や《十字街頭》を演じ、当時の上海の若者を熱狂させました。デビュー当時はアイドルでしたが、その後自分の素質を活かして演じました。50~60年代には中国の音楽家”聶耳”や”林則徐”、革命家、古代中国の著名な医師”李時珍”の青年期から晩年まで等を演じています。彼の例から分かるように、能力のある俳優なら、若い頃はアイドルでも、自分の素質を活かし、その後多彩な役に挑戦できます。その時代や民族、文化、文明などを反映した役を演じられます。もし張國榮がまだいたら、もしかしたら中国文化の男性版の”チャングム”を演じたかもしれません!
後輩たちが張國榮の演技を受け継ぎ、発展させる
林紀陶:
張國榮に演じて欲しい役と言うなら、話は尽きません。《カルマ》のレベルに到り彼はどんな役でも演じられるようになっています。 “すばらしい演技のできる俳優”という役でも彼は演じ切ったでしょう。そして張國榮の未完の演技には、多くの後輩が憧れています。張國榮の後継者が出てくることを期待します。
盧偉力:
私も同じ意見です。トニー・レオンの演技は内観的なものです。張國榮の演技にも見られます。例えば《追憶の上海》では力のこもった演説をしても、その表情は誇張されていません。《カルマ》では、正確にその感情のあるべき幅と言うものまで正確に演じています。自分を内観する時の強さ、情緒の高ぶった時、一つ一つ演じています。俳優がその役が体験する種々の心理状態を受け容れ、演じようとした時、その俳優の芸域は無限に広くなるでしょう。演じる役のキャラクターはより豊かに複雑になります。《カルマ》を見れば明らかです。
音楽感溢れる映画を創作
盧偉力:
クリエイターとその人の生活環境とは切り離せません。《煙飛煙滅》での会話は、張國榮が日常良く聞いているものです。例えばアニタ・ムイはマネージャーで、他に歌手がいたり、彼が良く知っている世界です。しかし創作には、こういった生活の中にある素材だけでは不十分です。榮先生、創作に携わる立場から、張國榮にどういったテーマを取り上げて欲しいと考えられますか?
榮雪煙:
私個人としては、彼が撮ったものは音楽的になったと思います。彼は俳優として監督の芸術に向き合ってきました。《追憶の上海》で難産の場面がありましたが、監督はどういう方法で撮影するか悩んでいました。その時張國榮が提案したそうです。シンプルに布を壁に掛け、カメラは布のみを写す。布に写ったシルエットを通じて、ムイ・ティンの心身の状態を写すという方法でした。結局監督は異なる方法で撮りましたが、もし撮影されていれば非常に音楽的なものになったと思います。
抑圧に耐えて勇敢に生きる役
盧偉力:
私も二つの方向について考えてみたいと思います。一つは彼の生活からテーマを得るものです。張國榮は考え抜いて90年代半ばから後半には、はっきりと同性愛を認めました。これは彼の人生においての非常に重要な事実です。当時彼は40歳でした。この年タバコを止めています。《煙飛煙滅》でも自分へのプレゼントとして健康を送ることにしたと述べています。これは同性愛をテーマにした作品を撮りたいと言うことではありません。彼が撮った人物たちは、初めはその愛情を隠していても、最後には社会に向かって、その愛の対象を宣言しています。これがポイントです。張國榮が創ったならば、気持ちを表わせず抑圧され、耐えて後に勇敢に生きるという役になり、またそういった役に彼は最適でしょう。真に迫って演じると思います。
林紀陶:
もし《流星》に続編があったら、この話には続きがあって良いと思いますが、次の世代への想いが語られるでしょう。
表現芸術における完璧な美の世界を代表
林紀陶:
本日始めにお話しましたが、張國榮に演じて欲しい役は数多くあります。なぜなら彼は無限の可塑性を持っているからです。役になりきり、古今東西、狂暴な人物も、温和な人物も見事に演じます。男性が女性の特徴をもっても、女性が男性の特徴をもっても、彼には問題になりません。現代でも過去でも、男性でも女性でも、全て備えており、想像して作り出すものではありません。”多元性”を創り出したと言えるでしょう。実際の哥哥は現実の中で生きています。しかしメディア、銀幕、歌、その芸術生涯では”完美”というものを表現しました。人の最高境地、完璧な美の世界です。
作品を貫くものは愛
盧偉力:
その他、私は彼の作品を見ていて”愛”を感じました。《煙飛煙滅》では父子のシーンがあります。子供の背中のアザに気付くシーンでもありますが、こういった何気ない所から、彼が父として思いやる気持ちを持っていたと分ります。
まとめますと、彼が今も生きていたら、彼は多様多彩な役を演じ、完璧な美の世界を追求し、真摯に取り組んだでしょう。そして彼のメッセージは”愛”と切り離せない関係にあると信じます。
質疑応答とまとめ
盧偉力:
御質問をお願いします。先にうかがって、後でまとめてお答えしたいと思います。
観客1:
林先生がおっしゃった、張國榮と賈寶玉についてを、もう少し詳しく教えて下さい。
観客2:
声の演技と言うのも張國榮の演技では非常に重要な一部分だと思いますが、ゲストの皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
観客3:
張國榮が”徐志摩”を演じることについて、どう思われますか?
観客4:
張國榮についていい加減なことを書いた本が売られていて、情けなく思います。ゲストの皆さんは張國榮を高く評価されていますが、哥哥について本を書いて論証することは考えていらっしゃいますか?
観客5:
私たちは銀幕での張國榮を知っているだけです。私は彼の実際の性格を知りたいと思います。また哥哥がもっとも好きだった映画が何か分れば教えて下さい。
張國榮の真情
盧偉力:
私は彼がどんなタイプの映画が好きか、どの作品が一番好きかは分かりません。 香港電台のインタビューから垣間見えた性格は、真面目で誠実でした。昨年の検討会でお見せしたインタビューで、羅志良監督について語っていた彼も誠実でした。一般に大スターになるとデビュー後間もない監督の作品に出演することはまれですが、しかし哥哥は羅志良を助けた。しかも一度だけではありません。また快くインタビューを受けて、羅監督には潜在能力を感じたからと言っています。歯切れよく語り、これも彼の性格の一面を表わしているでしょう。またHK$1で《流星》の出演を引き受けています。この作品での子供との関係は非常に自然で、こういった所から彼の本当の姿が垣間見られます。
林紀陶:
哥哥にとっては、最も好きな作品を選ぶというのは難しかったのではないでしょうか?俳優や監督の多くが、自分が好きな作品を選ぶのは難しいと言います。
今私がもっているこの本では、榮先生は先ほど指摘された類のいい加減な本だとおっしゃいましたが、哥哥の好きな作品は《風と共に去りぬ》だとしています。最も嬉しかったことは《覇王別姫》がカンヌでパルムードル賞に輝いたこと。自分が主演した作品で一番好きなものは書いてありません。俳優にとって自分の出演作品で、最も好きな物を言うのは非常に難しいでしょう。特に哥哥のようなレベルに達すると、演技中はなりきっていますから、演技も自己の一部分になっていると思います。
盧偉力:
賞を獲った、獲らない。観客の受けが良かったか否かは、彼がその作品を気に入るかの要因ではありません。張國榮は1977年に父の病気の為、イギリスの大学から香港に戻り、そして麗的電視台の歌唱コンテストに参加し、非常に長い《American Pie》を歌いました。ここから彼の肉親への愛情を感じます。そして自我の強さも分かります。当時流行っていた歌を選ばす、7分以上もある曲を、好きだから歌った。ここからも彼の性格が分かります。
榮雪煙:
性格俳優にとって、どの作品でもなりきっている時の感情は本当に感じていることです。そこまでやって、初めてその作品が好きになれます。例えば先ほど林先生は、この本には哥哥は《覇王別姫》が好きと書いてあるとおっしゃいました。しかしその後のインタビューで「もし《覇王別姫》を撮り直す事があったら、もっと巧くやれる。」と言っています。その時最も好きな作品を聞かれて答えたのは、《ブエノスアイレス》でした。しかし《ダブル・タップ》も《カルマ》も撮っていない頃ですので…俳優として、各段階でそれぞれ変化しています。自分の以前の作品について振り返ると、いつももっと巧く演じられると思うのでしょう。そして気に入るのはやはり、自分の最新の作品になると思います。
賈寶玉の立体化
盧偉力:
張國榮と賈寶玉の関係について、林先生にお願いしましょう。
林紀陶:
多くの方が、張國榮は賈寶玉の役にはベストの俳優だとおっしゃるでしょう。現実の張國榮が、賈寶玉の姿を見せています。私はあの昔の作品を指すのではありません。多くの評論家が指摘していますが、実際の張國榮の挙措動作が賈寶玉らしいのです。張國榮自身も文学では《紅樓夢》が一番好きと答えています。特に賈寶玉という人物が好きだと。私は彼が、この役を具体化できると考えていたのではと思います。
盧偉力:
私の友人が、《紅樓夢》を読みながら出番を待つ張國榮をみかけたと言っていました。自分に対して要求の高い人と分かります。
林紀陶:
そうです。皆が世話を焼きたくなるベイビー。2003年にお話しましたが、現場でプリンスです。いたら必ず皆の中心になって。賈寶玉的な性格を持っていました。しかし何故私が賈寶玉は張國榮に似ていると言うのか。それは賈寶玉が有利なのは、彼が文学に描かれた虚偽の人物であるからです。文学の良い所は読者の想像の余地があり、突拍子がなくても、現実離れをしていても良いことです。しかし張國榮は違います。実在の人物であり声と肉体をもっており、「彼が張國榮です」と示せます。読者が賈寶玉の姿をどう想像していようと、現代の世界に入ってくると、その姿は消えてしまいます。張國榮は現代社会でも、時代物でも演じられます。彼の容姿が賈寶玉の具体化だとしても、左目の三重まぶたをみれば張國榮と分かります。あの端麗な容姿は賈寶玉はかくあるだろうと思わせ、哥哥の声で賈寶玉が実像化されます。虚偽の人物を完全に具体化することは、虚偽の人物にはできません。それゆえに、張國榮は賈寶玉より優れていると言えます。張國榮は賈寶玉を演じられても、賈寶玉は張國榮にはなれません。
声での表現と演技
盧偉力:
声の演技についても質問がありました。《追憶の上海》では絶妙でしたね。彼は普通話と英語を話しています。普通話では演説もしていますが、十分注意できる俳優でないと、母語でない言語で強い演説口調で話すことは難しいです。先ほど見て頂いた《カルマ》でカリーナ・ラムと話す場面では、何気ない会話ですが感情が高ぶっているという状態です。声の調子を非常に良くコントロールしていることが分ります。
彼の美学は、唯美主義のみではありません。《煙飛煙滅》の最後のシーンでは背景に竹が雑然と生えています。彼は生活の中から情感の美を生み出そうとしました。もし”徐志摩”という唯美的な役を演じるなら、自分の素質で演じたでしょう。しかしもしその作品を監督するなら、中国やイギリス・ケンブリッジに行き、社会環境や背景を調べ、その質感をだそうとしたに違いありません。唯美主義的な性格もありますが、監督としてはリアリティーと質感を大切にしたと思います。
林紀陶:
私も張國榮が中国の作家・徐志摩を演じることを考えました。他に”郁達夫”も哥哥にしか演じられないと思います。また彼とは全く違う人物ですが、後期の作品から見ると、”魯迅”も出来たと思います。
声の演技についてはお話したいのですが、まだ盧先生のように細かく分析できていませんので、自分の経験について話そうと思います。《キラー・ウルフ 白髪魔女傳》の撮影が始まった時点では、まだVoice Overがありませんでした。撮影時、哥哥が台詞で言うはずのことが事情でカットされ、ある人物についての描写が不十分になってしまいました。あとで哥哥が作品中で、卓一航の生涯について語ることになりました。その声の演出で、私は元のシナリオのレベルも一段上がったと感じたほどでした。《キラー・ウルフ》のシナリオは金馬奨を獲りましたが、哥哥の功績も大きいと思います!
結び
盧偉力:
今後も私たちは、哥哥が完璧を追い求め、プロ精神を持ち、芸術への追求を続け、”愛”を肯定し、実践していたその精神を自分たちの生活の中で実現することで、哥哥をしのびましょう。《煙飛煙滅》では、彼はとなりにいる人の為に禁煙しましょうと呼びかけました。あなたがタバコは吸わないとしても、何かしらの悪習慣があると思います。周りの人の為に、何かをしましょう。習慣を変えてみましょう。哥哥の精神を座右の銘にして下さい。これも張國榮が生涯をかけて、私たちに贈ってくれたメッセージだと信じます。
会はこれまでです。我々が愛してやまない張國榮先生に盛大な拍手をお願いします。