The 4th Leslie’s Seminar
(Translated by Miho)
日期:2004.09.12
地點:香港九龍灣國際展貿中心會議室316-318
主辦:哥哥香港網站
講題…..張國榮の映画作品における、恋人としての形象と死の意識。
講者…..洛楓(大學教授)
始めに
哥哥が去ってから、私は何度も講演してきました。そのテーマは流行の音楽、舞台演出及び衣装デザインが主でしたので、本日は映画作品について述べたいと思います。タイトルは「張國榮映画作品における、恋人としての形象と死の意識」です。「恋人~」については2004年4月に論文を書き、彼が演じた恋人の特徴を論じました。このとき「死の意識」についても考えましたが、4月でもあり避けました。その7月に英語で、哥哥についての論文を書きました。彼の芸術における功績と、誤解を招いている事柄について国際言語で論じ、国際的な場に発表したいと思ったからです。
論文を書くにあたり《カルマ》を見直し、非常に感慨深かったです。後ほど《カルマ》についてもお話いたします。本日は哥哥を想うと共に、中期の《ルージュ》から後期の《カルマ》まで、彼の演技の特色、役選択の変化をたどってみたいと思います。後期の作品のみでも多くの変化が見て取れます。後になればなるほど、役も単純でなくなり、演技が難しくなっていますが、哥哥は見事に演じています。ハンサムな貴公子のイメージを捨て、精神異常者や殺人者などマイナスイメージの役も演じています。
まず80年代の特色から《カルマ》への発展をみて、その後具体的に作品を取り上げましょう。《ルージュ》と《欲望の翼》を比較します。哥哥の映画ではよく恋人の役が死と結びつけられます。《ルージュ》の十二少と《欲望の翼》のヨディは同じ視点で考えられます。そして《覇王別姫》です。これは重要な作品ですね。あと《君さえいれば/金枝玉葉》と《ブエノスアイレス》です。最後に《ダブル・タップ》と《カルマ》を考えましょう。段階に分け、それぞれの特色から、哥哥の演技がだんだんと成熟していったことをご理解いただければと思います。
恋人としての形象、及び《ルージュ》と《欲望の翼》における愛と死。
各時期における役柄
80年代哥哥は、ハンサムな不良少年のイメージで売っていました。歌でも《風継続吹》《為イ尓鍾情》など、全てこの路線です。哥哥はバラードが好きでしたが、市場はアップテンポの曲を望みました。これは香港80年代の音楽界の傾向ですが、この時期“日本風”が流行し、アラン・タムもアニタ・ムイも日本の曲を多くカバーしています。哥哥のスタイルもマッチ・カット(近藤真彦風カット)など、日本のアイドルを真似たものです。哥哥はこの頃すでにゴルチエのアクセサリーやイブ・サン・ローランのスーツなどを身につけて貴族的な雰囲気を漂わせていましたが、このような貴公子スタイルは、まだまだ受入れられませんでした。庶民派のイメージが好まれ、一部の人は彼を嫌いました。
テレビでは麗的電視のドラマシリーズ《浮生六劫》《浣花洗劍録》、また無線電視の《儂本多情》《武林世家》などに出演しましたが、人気を得るまでには到っていません。2003年の「追憶張國榮的芸術生命研討会」でも指摘されておりましたが、哥哥の“余情を表現する”演技にはじっくり見られる長さが必要で、テレビというメディアは、彼には小さすぎると思います。また貴公子的風貌もお茶の間に入るものとしては、受入れられませんでした。これはその後映画界で才能を発揮できた理由でもあります。
初期の作品は《喝采》《烈火青春》《レモンコーラ》など、反抗的な若者を描いたものがほとんどです。早々からいい子でなく、斜に構えた影がある役を演じたのは特徴といえるでしょう。後に恋人を演じても素直な性格ではありません。一般的に受入れられる役はほとんどなく、獎獲得でも批評家のご機嫌は取れませんでした。それが明らかだったのが《ブエノスアイレス》です。哥哥の演技は際立っていましたが、役が悪すぎました。野蛮で独占欲の強い人物です。一方トニー・レオンの役はすんなり受入れられるもので、観客の同情を誘いました。哥哥がこういった役ばかり演じたのには、二つの理由が考えられます。第一に正でもあり邪でもある演技ができたこと。第二に監督がその演技を評価したため、才能を存分に発揮して歪んだ役も演じられたことです。
1989年、張國榮は音楽界を引退し、映画に専念しました。90年代の復帰は、彼にとって転機だったと言えるでしょう。映画でも音楽製作でも、彼は自分のイメージを一新しました。彼は自分をしっかりもった人です。80年代の売るためのスタイルを続ける事もできました。しかし彼は挑戦を選びました。そして物議を醸したり、攻撃されたり、排斥されたりする役にも全力投球しました。例えば《覇王別姫》。これは同性愛者が自殺することで決着する物語です。またコンサートで紅いハイヒールをはいたり、《金枝玉葉》では同性愛嫌いのプロデューサーを演じたり。《家有喜事》では、自ら女っぽい役にしようと提案し、様々な役柄を演じようとしています。これは彼自身が強く意識して、新たな演技を求めたこと。そして幸運にも彼を評価する監督、例えばスタンリー・クワン、王家衛、ピーター・チャンなどと出会え、才能を発揮する機会を与えられたことで可能になりました。哥哥が見せてくれる姿は、本当に千変万化です。
その後《ダブル・タップ》と《カルマ》では、一歩踏み込んで人心の暗黒を描いています。精神異常者や殺人狂などです。ここでは顔のアップでも、正面から全面に光を当てていません。笑みをたたえた美しい姿でありながら、その目は恐れおののき、表情は歪んでいます。メイクとライトの効果で“通常ならざるもの”と化してしまったこと。自己をコントロールできない状態を表現しています。この2作品は大変重要で、多くの評論家が取り上げています。
評論家の呉吴教授が指摘されていますが、張國榮の役は《流星》以降明らかに変化しています。《流星》では父親の役です。もうハンサムな不良ではありません。子どもを抱えた父親が、二人で支えあって生きていく。その中の悲喜こもごもを描いています。香港の俳優の多くは二枚目を演じ慣れており、それ以外を演じるのは難しいと言います。王家衛も指摘していますが、30~40代の俳優が、20歳代の役を演じるのもなかなか骨が折れることです。意識が高い俳優であってこそ、父親、中年、殺人者などのネガティブな役を引き受けるでしょう。俳優によっては自分の歌手としてのイメージ、もしくはまっとうな人物としてのイメージが損なわれることを怖れ、殺人鬼の役は受けないといいます。惜しいことに、哥哥はこの段階に到り、更に才能を発揮しました。
張國榮映画中の愛情と死
では具体的に作品を取りあげて、細かく見ていきましょう。主に中後期の作品で、87年の《ルージュ》から始めます。初期の青春映画、反抗的青年、名家の子弟の役については、別の機会にお話したいと思います。中後期の作品では、内面の愛情と死の意識が常に関係しています。西欧の文学や文化においては、“Love & Death”は常に共に議論されます。愛する事は生死と同じ重みを持ちます。片思いであれ、熱愛であれ、失恋であれ、生死を決する状況に似ています。愛情の最高段階は死かもしれません。自分を投げだし、死をもってその愛情を昇華させるのですから。
意識してか、張國榮の映画ではよくこの二つが関連して出てきます。最も明白なのが《ルージュ》です。《ルージュ》では心中しようとして失敗します。情死は《覇王別姫》で完成します。《欲望の翼》では彼が倒れるシーンはないものの、撃たれたことからその死が分かります。《覇王別姫》では舞台において、死を高度に芸術化しています。この死の形は、愛情に通じるものです。程蝶衣の兄弟子段小樓への愛は、世間が許さないもので、舞台の上でのみ完成し、そして死をもって完成したのです。
扱いにくい恋人
恋人役について考えると、変化はありますが、一貫していることがあります。彼の演じる恋人は、一心に愛してくれる良い恋人ではないことです。皆一途でもなく、心地よさや安心を与えてくれるのではなく、いつかんしゃくを起こすか分からず、わがままで、他人のことなど顧みないようなタイプです。それが最も極端なのは《楽園の瑕》の西毒、欧陽峰でしょう。この人物は悪辣で陰険です。のちに最愛の人が兄嫁になり、自暴自棄になり、殺人稼業で自分をごまかし、傷を隠していると分かります。自分を溺愛し、他人を愛さず、最後には人を傷つけることで、自分を傷つける結果を招いています。
こういったタイプは初期の《儂本多情》にすでに見られます。興味深いのは、彼の演じる愛情の形は受入れられ難く、理想的な夫でもつき合い易い恋人でもないのに、観客はそれを受け入れ許してしまうことです。哥哥の容姿には天使に通じるものがあるようで、素直で純朴で、彼に見つめられるだけで捕まってしまう。しかしそれを受け入れ、また許してしまうのです。これは映画でも同じで、ある人を愛しているのに、別の人を好きになってしまい、先の一人を傷つけることになっても、特に女性の観客はこういった悪い恋人を好きになるのです。正に“悪い男はもてる”で、天使が悪ふざけをしてしまった程度で、彼を許してしまいます。こういった素質に恵まれない俳優が悪役を演じたら、そっぽを向かれるでしょう。天使の顔を持つ悪魔、彼はこの素質に恵まれています。正に《ブエノスアイレス》のトニー・レオンのように別れようと思いながら出来ない。《ブエノスアイレス》の何寶榮はどうしようもない奴ですが、惹き付けるものがあり、黎耀輝は拒否できません。哥哥はこの恵まれた素質を、銀幕上に遺憾なく発揮しました。
同性愛者の恋人-正しいことを行うのに、顧みて二の足を踏む必要はない。
他に同性愛者としての恋人も演じています。90年代には《覇王別姫》《ブエノスアイレス》また《金枝玉葉》でも勇敢に愛情を表現しています。《覇王別姫》の程蝶衣が菊仙と兄弟子を奪い合うシーンでは、そのまけずぎらいな様子が分かります。同性愛者のやくでも簡単に妥協などしない人物で、交換条件を出すなど、コン・リーと渡り合う様子が描かれます。
観客の心まで引き込む、精神異常者の役
3つ目は、精神異常者です。《ダブル・タップ》では彼女を救う為に多くの警官を撃ちます。奇妙なのはこの作品を見る際、警官アレックス・フォンに感情移入せず、最後には殺人者が死ぬと分かっていても、彼女を救い出せるよう願ってしまうことです。殺人者が撃つ時には警官が倒れるよう願い、彼の方に感情移入していました。他のガンアクションではこのようなことはなく、私は自分の心理状態を疑いました。アレックス・フォンの役は模範的な人物で、家庭を守り、同僚の面倒をみて、正義感のある人物です。哥哥の役はわがままですが、観客は哥哥の方に同調してしまうのです。哥哥の演技は、観客の心まで引き込んでしまう。これは興味深い点です。
演技の深度について
ここで哥哥は数多くの愛情の形を演じていますが、その役が哥哥本人と同じであると誤解されないように強調しておきたいと思います。でなければ、精神が分裂しているでしょう。最近ある英文の論文を読んだのですが、不快に感じました。ウィリアム・チョンのインタビューを読めば、哥哥の名誉を回復できます。その論文は《ブエノスアイレス》を論じたもので、張國榮の役は自分を演じたもので、自分を役に当てはめたのみというものでした。ウィリアム・チョンのインタビューは中国語でなされており、論文著者は原本を読めなかったと思います。実際のインタビューでは、哥哥は《ブエノスアイレス》の撮影中非常に苦労した。外国であること以外に、何寶榮の役作りに心血を注いでいたとありました。哥哥はきれい好きで、美しく整っているのが好きです。何寶榮の性格とは全く異なります。哥哥はふとした仕草、表情、話し方などを研究し尽くし、身体言語でもって役の性格を表現したのです。それも自然に、演技と見せないで。
演じるには役の研究も工夫も必要です。メイクや衣装だけでは演じられるものは、非常に限られるでしょう。表情も視線の使い方も、話し方もほとんど変らない俳優がいますが、それでは役になりきれません。哥哥の《ブエノスアイレス》での演技は自然すぎるほど自然であり、だからこそ本人を演じたとまで言われたのでしょう。この作品の美術監督及び編集を手がけたウィリアム・チョンが哥哥の演技を証明しています。演技のレベルや表現を論じるには、手間を惜しんではいけません。軽々しく本人の性格から判断してはいけません。深く論じようと思えば、他の資料やその役がどうやって作られたかを分析する必要があります。
大銀幕でじっくり見せる、張國榮の余情を表現する演技。
扱いにくい恋人ということで《ルージュ》の十二少と《欲望の翼》のヨディに触れましたが、この二人もはっきりと性格が異なっています。愛情に責任を持たず、約束した事も守れない。ここから弱い性格であると分かります。《ルージュ》で例えば、如花(アニタ・ムイ)が十二少を芝居の先生のもとに連れて行くシーンがありますが、哥哥はおどおどした目付きで演じています。自力で頑張らなければならない時、劇団の下っ端としてやっていくことへの怯えがうかがえます。よく見てください。十二少の目は浮ついて定まらず、楽譜を持ってはいても読んでおらず、眼は別の方向をむき、声は震えています。こういった演技で、哥哥は内心の性格、不安、しかし冷静に歌おうとしている様子を表現しています。
一度ロサンジェルスで《覇王別姫》を見る機会がありました。現地の中国系の教授が「政治の抑圧を強く感じて好きになれないが、張國榮の演技は高く評価する」とおっしゃいました。教授は愛情を全て失い、空洞化した状態のシーンを取り上げました。このシーンにはせりふはなく音楽のみですが、それだけで哥哥は感情を表現しえるのです。これも昨年指摘されていますが「哥哥の演技には長いシーンが必要。じっくり見せる時間と大きなスクリーンが必要」なのです。例えば《欲望の翼》には長いカットが多いですが、哥哥は座っているだけでその心理状態を表現しています。せりふはなく、表情や目や身体のみで表現しています。先ほど哥哥は聖人君子を演じなくても、観客は彼に感情移入してしまうと言いましたが、こういう感染力があるために、我々の心まで引き込んでしまうのでしょう。
扱いがたい恋人の表現
悪い恋人の役では、よく目と口角でニヒルに笑う表情を見せます。軽薄に見せたり、媚びて見せたり。彼は観客の同情と許しを得るのが非常に巧みです。みな下心があるのはわかっていて、許してしまう。幼子がいたずらをしても、きつくとがめられないのに似ています。
《ルージュ》の十二少は名家の御曹司です。端正だが脆弱、風流だが不甲斐ない。その結果が臨時雇いの俳優です。生きているだけましと言うような。《欲望の翼》では異なり、哥哥特有の、そして最も得意とするシーンが見られます。自意識、ナルシズム、繊細さ、女性的な優美さ、甘やかされた態度…自分だけで良く、人のことなど顧みない姿です。ヨディは近づいてくるどの女性も見ておらず、ジャッキー・チュンの役も気にかけていません。彼がカリーナ・ラウの役が好きと分かっていても何もしない。「好きなら連れて行け!」という態度です。養母に対しても同じで、生母の所在を突き止めたいのも自分の存在価値を確かめたい為為で、親子の情からではありません。王家衛の生み出した、きわめてわがままな人物ですが、《楽園の瑕》でより一層尊大になります。西毒‐欧陽峰は更にわがまままで悪辣です。
《ルージュ》の分析
お見せしたのは《ルージュ》の始めで、如花と十二少が向きあって歌う場面です。カメラワークを分析しましょう。哥哥の眉目秀麗に目を奪われるだけでなく、5分のシーンの中に多くの“鏡”が出てくることに注意してください。まず鏡には自分と相手(想い人)が映ります。鏡は毎日見るものですが、鏡の中の自分を好きになるというのは、ナルシスティックです。人を愛する事は、自己を投影することだと言われます。人を愛することを通じて、自分を愛し、自己の存在を明確化する。愛されなくなった、つまり失恋すると、自分が否定されたような気になり、魅力もとりえもなくなったように感じます。どん底に突き落とされた気分になります。つまり人を愛する事は、自分の存在を確かめることです。そして“鏡”を通じても、存在確認は出来ます。このシーンで如花は男装しており、同性愛を感じさせます。十二少は男装の如花を愛したのであり、実際に愛したのは自分自身です。そのため心中に失敗しても、自らを愛し、もう自殺はしません。歌われているのは《客途秋恨》。遊女と客の悲恋物語で、映画のテーマをよく表わしています。
《ルージュ》の始まりは示唆的です。十二少が階段を上がってくる途中で少女とすれ違いますが、彼は少女たちが自分を見つめる事を確信しています。自分の魅力に絶対の自信を持っています。そして鏡の中に男装の如花を見出だしても、彼が愛するのはやはり自己の投影像です。
そしてカメラも“鏡”の一種です。演技者はカメラに向かい観客を惹き付けようとします。哥哥もトニー・レオンも、カメラを通じて観客を引き込む事に長けています。ある資料によると《ルージュ》主役には、まず周潤發が抜擢され、その後鄭少秋になり、三番目に選ばれたのが哥哥だったそうです。哥哥曰く「本来は8日で撮れるだけの出番だったけど、監督とプロデューサーが僕の演技をすごく気に入ってくれて、出番が随分増えた」。哥哥は名門御曹司役を活かし、また愛情に潜む“人を愛する事とナルシズム”を見事に表現しました。《男生女相》を見て頂きますが、その中で哥哥はナルシストかと聞かれ肯定しています。これも興味深いところです。
《欲望の翼》の分析
続けてヨディが一人、鏡に向かって踊る場面です。これは“自分を愛している”ことの表現です。この場面にはせりふはなく、ヨディの内心世界です。そして「脚のない鳥」の有名なせりふも他人には知られない、彼の内心なのです。これらのシーンがなければ、彼の自我を理解するのは難しいでしょう。多くの評論家がこのシーンを評価していますが、哥哥であればこそ、このシーンが演じられたと思います。自己陶酔の状態です。通常踊るには相手が必要です。しかしヨディは独り踊り、それを苦痛に感じる事もありません。それどころか十分浸りきる。彼が踊っている相手は鏡の中の自分であり、高度に芸術的に具象化された場面で、極度のナルシズムが浮き彫りにされます。自分以外は誰も愛さない。恋人だろうが、養母だろうが生母だろうが。他人は全く重要ではない、鏡の中の自分がいれば。このシーンはヨディの内心世界を、具体的な動作で表わす事で、あぶりだしています。この点をご理解頂ければ、ヨディの決定や行為、ことばの意味が分かるでしょう。「脚のない鳥」の物語は、ヨディが自分に語った、ロマン化された自我の形象です。そして作品の最後で、この設定は破られます。王家衛は人の性質をよく見抜いていると思います。人はそれぞれ、自分はどういう者だという意識を持っていますが、実際には異なります。ヨディの問題は自分を神話化し、「脚のない鳥」だと信じたことです。最後にはアンディ・ラウの一言が喝破します。「お前のどこが鳥だ?普通の人間じゃないか。」と。
《ルージュ》及び《欲望の翼》における死の意識
《ルージュ》及び《欲望の翼》における死の意識を比較しましょう。《ルージュ》では死をもって、十二少を懲らしめるのではありません。落ちぶれて、道楽のつけを払うことが彼の愛情の裏切りへの懲罰です。そして“死して青春を留める”というテーマが語られます。情に殉じた如花は53年後も往時の美しさです。高度に芸術化、哲学化された中で、死は最も美しい瞬間を凝縮します。心中に失敗した後、再び心中を試みることなく享楽を重ねた十二少は年老い、哀れな晩年を送っています。ここでも非常に悲劇的ですが、監督は歌曲を上手く使い、二人が初めて会ったシーンを挿入しています。
続いて《欲望の翼》の結末です。ヨディは情けない死に様です。これと言う理由もなくヤクザと衝突して撃たれます。これは“理由なき反抗”という主題に合致します。反抗するために反抗する。自己の存在を確認するために生母を探したが、探し当てた後、何を欲するのか分からなくなってしまった!よく注意してみてください。高所から撮影されているのが分かります。二人は違った姿勢で座り、これはそれぞれの心理状態を示しています。ヨディは態度が大きく、アンディ・ラウはきちんと座っています。そしてアンディ・ラウの一言がヨディの自己の神話化を打ち砕きます。ここで俳優の姿勢や表情、せりふの調子を利用して、それぞれの性格を描いています。ヨディは全く可愛げがない奴ですが、それでも私たちは彼を愛さずにはいられません。ヨディが反論されたときに見せた、不服そうな顔を見ても、私たちは受入れてしまうのです。哥哥はこういった演技が得意です。軽々しく“本人を演じている”と言うべきではないのは、役柄の性格が描き出されるのは、多くの設定があってのことだからです。俳優の演技力はもちろん重要ですが、監督や美術監督、編集の協働も不可欠です。また一見重要そうでないシーンも疎かにしてはいけません。例えば独りで踊るシーンの意味が理解できなければ、後のヨディの行動が理解できないでしょう。
ここでは《欲望の翼》と《ルージュ》における、愛情と死の関係性をお話しました。《ルージュ》は死ぬよりも辛い晩年で愛情への裏切りを罰し、《欲望の翼》では情けない死に様で、自己神話を破滅させました。
《覇王別姫》の分析
演技者とは
90年代には、張國榮は自分がバイ・セクシャルであることを、はっきり示すようになっています。TIME Magazineなどの海外の雑誌、また香港の明報周刊のインタビューにおいても、演技上も個人としても自分がバイ・セクシャルであると述べています。「演技者は雌雄同体でなくてはならない」という彼のことばは、非常に重要です。そうでなければ多様な役になりきり、違ったキャラクターを作り出すことは出来ません。男性でも女性的に、女性で男性的に表現できる。それが自在に出来てこそ、役の性格を立体的に捉えることが出来ます。哥哥はインタビュー中でこの考え方について述べており、演じることについて、非常に高い意識を持っていたことが分かります。
97年のコンサートでは《月亮代表我的心》を歌い、紅いハイヒールをはきました。この演出は衝撃的で随分批判されましたが、彼は自分の道を歩み続けました。90年代彼が同性愛者として公言しても、女性のファンが減ることはなく、それどころか国内外の同性愛者の熱狂度が高まりました。2003年4月、私は台北にいましたが、連日報道がなされていました。台湾では多くの同性愛者のアーティストたちが驚きを隠せずにいました。「哥哥は勇気を与えてくれた。彼は模範だ。どうやってカミングアウトするか。そしてさげすまれず、周囲と摩擦なく生きていく。非常に美しい姿だ。」林夕が書いたように、輝く姿で立っていたのです。
90年代同性愛者としての表現は《覇王別姫》にもっともはっきりと示されています。《覇王別姫》の主役としては元々ジョン・ローンが選ばれていました。ジョン・ローンは海外での知名度も高く、京劇の素養もあり、陳監督は彼を考えました。その後色々あり、張國榮になりました。この時期張國榮は雑誌《號外》で非常に美しい女形姿での写真を撮っています。女形の役に耐えうる、それどころか女性より美しくなると示したかったのでしょう。また《家有喜事》では女っぽい役柄にしようと提案しています。自分なら役に命を吹き込めることを知っており、また説得力もあった。そして当時のイメージにも影響しませんでした。
《覇王別姫》における「同性愛」の層構造
《覇王別姫》での役は、同性愛者として二層で描かれています。第一層は舞台上の女形としての役です。歴史的にも、例えば梅蘭芳のように男性が女性に扮することはありました。第二層は程蝶衣という同性愛者です。《覇王別姫》で程蝶衣のみを追ってみると、この二層を行き来していることが分かります。舞台外では兄弟子を愛する京劇俳優で、舞台上では貴妃であり虞姫であり、女性役です。対する段小樓は常に男性です。舞台上では二人は一対であり、異性の愛情関係です。舞台外では程蝶衣の一方的な同性に対する恋で、これが作品中の二層です。同性愛について分析をすると、映画の限界を感じずにはいられません。《覇王別姫》の原作は非常に優れたものです。作者の李碧華は同性愛に対して、開かれた考えをもっていると思います。文化大革命の影響を受けた陳凱歌監督は、中国の政治と近現代の歴史を同性の恋に盛り込みました。政治的圧力は愛情への圧力、同性愛への圧力と等しく、同性愛の歪曲化は政治の歪曲化と等しいものだと描かれています。
個人の演技が映画を展開させる
哥哥が香港中文大学で講演した際、私は尋ねました。「ご存知の通り《覇王別姫》の監督は、かなりの同性愛嫌悪派です。スタンリー・クワンのドキュメンタリー《男生女相》でも言及されましたが、あなた自身の同性愛への考え方を持ちながら、どのように同性愛嫌悪派の監督の作品で演技されたのですか?」哥哥の回答は明快でした。「監督の育ってきた背景を考えてください。中国の監督が、同性愛にどのような考え方を持っているでしょうか。また監督というのは外国市場のことも考え、政治的タブーも視野に入れなければなりません。中国や某市場では許されないこともあり、制限があります。」そして俳優として自分に出来た事は、程蝶衣の恐れを知らない愛を演技や表情や、自分の出来る方法で表現し、あるまっとうな人物として描くことだったと言いました。そしてそれぞれの表情をやって見せてくれ、演技が役を作り出すその効果を見せてくれました。ここから哥哥は映画というものとその限界をしっかり認識しており、その上で俳優として監督の創作には口出しできないが、キャラクターを作り出すことは出来ると分かっていたことが伺えます。93年のロサンジェルスで、かの教授は《覇王別姫》について「張國榮の演技に注目しましょう。彼の演技が最もすばらしく、作品全体を展開させています」と述べました。後に哥哥の解説を聞き、納得のいく思いでした。
幸いにして程蝶衣の少年時代の暗く暴力的な演技は、他の俳優が演じています。哥哥に替わった後の程蝶衣は魅力的で、痛めつけられたり、抑圧されたりの役ではありません。少年時代はかわいそうで、口の中にキセルを突っ込まれたりと残酷です。哥哥は自らの演技で、映画を展開させ、社会規範を外れた人物でも観客に受入れられるようにしました。
《覇王別姫》の分析
お見せしたのは程蝶衣の自殺の場面です。先ほど申し上げた二層構造に注意してください。程蝶衣は笑いながら剣を抜いて自殺します。彼は苦痛を感じず、満足して自ら選択しています。そして「我は男として生まれ、もとより女にあらず」と二度繰返します。ここに二つの意味があります。第一に京劇を学び、自分の性を転じざるを得なかったこと。女性として《思凡》を歌ったことを思い出しています。第二に失望です。世間で“一対”というと、男性と女性。兄弟子も菊仙という女性を娶りました。彼は女性ではなく、どうしても兄弟子を得る事はできません。「我は男として生まれ、もとより女にあらず」これは程蝶衣の無念なのです。そしてその無念は、舞台の上でなら晴らせる。女装し女形になったなら、虞姫としてなら。監督は卓越した手腕で、無念を表現しています。女形として程蝶衣の最大の哀れは、社会に抗えきれなかったことです。なぜなら「我は男として生まれ、もとより女にあらず」だから。何故舞台上でこの姿で最後を迎えたか、納得できますね。この場面での死は、辛く苦しいものではありません。後ほどお話しますが《ダブル・タップ》と《カルマ》とは違います。他に選択肢がなくてではなく、自ら望んだ死。これが彼の精神の表現であり、完成なのです。社会から受入れられない愛情、社会から拒絶された状況で、程蝶衣は舞台上で解決するしかなかった。舞台上で死をもって完成させるしかなかったのです。監督は懸命にも、程蝶衣が倒れたところを見せません。美しい姿態のままで、音のみで倒れたことを知らせ、観客に想像の余地を与えています。アンソニー・ウォンの歌《禁色》に、良く似たテーマが出てきます。この愛の形も、いつか受入れられるようになったらと、同性愛の関係を歌ったものです。《覇王別姫》での死の姿は儀式であり、芸術的昇華です。役柄と自身の生命を結合させて完成し、愛、芸術、生命、性格それらが満たされた刹那完結しました。《ルージュ》の不甲斐なさや、《欲望の翼》での反抗するために反抗し、最後に神話が打ち砕かれたのとは違います。死を非常に美化し、ロマン化しています。程蝶衣は舞台に生き、舞台に死し、役に忠実でした。生涯一途に舞台上の虞姫を演じ続け、社会には受入れられない愛情を、舞台で完成させたのです。
愛に敏感で、繊細なナルシスト
次にお見せするのはスタンリー・クワンのドキュメンタリー《男生女相》での哥哥のインタビューです。このドキュメンタリーは、中国映画における性別を分析するものです。哥哥のインタビューは、《夜半歌聲》についてから始まり、哥哥はこの作品では語れたはずのことが無駄になってしまったといっています。つまり顔に傷を負ってからの展開です。そして《覇王別姫》についてと、陳凱歌監督の回想です。
Q:
ハンサム役で鳴らした張國榮が、《夜半歌聲》では顔を傷つけられるという悲劇の役です。出演者として、旧版《夜半歌聲》と比較していかがでしょうか?
哥哥:
新版《夜半歌聲》ではシナリオの可塑性及び、傷を負ってからの運命と衝撃がおろそかになっていると思います。表面的になって、男女の感情の方を重視して。旧《夜半歌聲》のほうが、メッセージ性は高いと思います。
Q:
顔に傷を負うのは、ナルシズムの象徴的表現だとも言えるでしょう。あなたが演じられた役で、ナルシストでないものはありません。あなたもナルシストですか?
哥哥:
はい。絶対にそうです!
Q:
あなたがそういった、ナルシストで影を持つ役を作られたのでしょうか?それとも役の影響で、あなたがそうなったのでしょうか?
哥哥:
私には他の人にはない特徴があります。観客も知っていると思います。私は特に愛情について感じやすく、繊細であると思われているのではないでしょうか。
《覇王別姫》のシナリオについて
Q:
《覇王別姫》の原作はある京劇団の兄弟弟子の、生涯に渡る愛情怨恨の連綿を描いています。しかし映画では同性愛の部分は、控えめに語られており、却ってコン・リーの役割が強調されていると感じます。張國榮が演じる兄弟子への愛情は、彼の片思いに描かれますが、どうしてこの様に撮られたのでしょう?
陳監督:
《覇王別姫》は、同性愛を中心に撮影したのではありません。撮影時に小説からシナリオを構成しましたが、コン・リーの役割を強調したのではありません。「せっかくコン・リーを起用するのだから、出演部分も多くしよう」という現実的な思惑はありましたが。張國榮の役に対するものを描くことで、彼の役を浮び上がらせようとしたのです。一般的な恋愛を描くことで、程蝶衣の兄弟子への愛情をより強調できると考えたのです。
Q:
陳監督の《覇王別姫》の結末は、原作とかなり異なっています。映画では芝居として形式化された《覇王別姫》をもう一度演じ、程蝶衣が芝居を現実にし、自殺して終ります。原作では兄弟弟子が年をとってから、同性愛者が集う浴場で再会します。この変更は陳監督が潜在的に同性愛者を恐れているからだと言う意見も多いですが、いかがですか?
陳監督:
死以外の方法で表現できれば、それは最高のレベルだと思います。天に昇っての訣別。悲しい中手を振って。程蝶衣は苦しむでしょうが、それでは満足できません。《覇王別姫》は現代の通念を用いて撮っていますが、観客にその人物への同意を求めるものではありません。それは別の話です。しかし最も描きたかったのは、彼が最後に言った「我は男として生まれ、もとより女にあらず」です。いかに外見を飾ろうと彼は男性。これは男性が男性を愛した物語なのです。
性別を越えた愛情
陳監督がドキュメンタリーで語っているように、コン・リーの知名度も考えて、シナリオは書かれました。その他に監督の作品全体の解説も聞けます。哥哥が演じた部分は作品中で見られます。両者を比較すると、哥哥が監督の指示や制限やその他の条件下で成し遂げたこと。いかに役を生かしたかがわかると思います。
哥哥へのインタビューでは、彼は非常に率直に自分は絶対にナルシストであり、愛情に対して感じやすく、繊細であると述べています。こういった気質が様々な映画で、違った形で表現されています。
《ブエノスアイレス》と《金枝玉葉》についてお話する時間がないのが残念です。《金枝玉葉》の場面、特に男に扮した女性であるアニタ・ユンとのシーンは、印象的です。「男性でも女性でもいい。君を愛する」というメッセージが語られます。哥哥の監督作品は「ある人を愛するのに、性別は関係ない。男でも女でも。愛は愛。」というテーマだったそうです。このメッセージは《金枝玉葉》のアニタ・ユンとのシーンでも語られます。哥哥の演技と目の動きに注目してください。ローズを愛していたが、その後ウィンを好きになって、バイセクシュアル性が示されます。
《ダブル・タップ》と《カルマ》の分析
文明社会における抑圧
次に精神異常者が登場する《ダブル・タップ》及び《カルマ》を取り上げます。この作品では哥哥は全く違った表情を見せています。ヒステリックで、容貌も歪んだ哥哥です。
心理学や医学など様々な角度から、何が精神異常かを分析できます。精神分裂も抑圧の影響を受けた精神状態です。精神異常者は内心と実際の行動が一致せず、自分の意識と行動がコントロールできません。深層での抑圧が爆発し、制御できないことがあります。《ダブル・タップ》のRickは、殺人に快楽を感じるようになります。端的にいえば、精神異常は人間が本能的にもつ性質が、社会道徳や法律に抗している状態です。人類は殺すことを好み、暴力的傾向にあります。銃をぬけば的ではなく人を撃ちたくなる、それは潜在的に持っている原始的欲望なのでしょう。道徳や法律や社会ルールのもとで、それが出来ないだけです。フロイトの著作《Civilization and its Discontent》には、文明の発展の中で、人の原始的欲望は常に抑圧されてきたとあります。成長する中で私たちは教育され、人のものを奪ってはいけない。男の子はズボン、女の子はスカートを履くこと。男の子はピンクの服を着てはいけないなどと言われます。私たちは社会ルールを学び、それを破ってはいけない。破ると罰するといわれます。成長の過程でルールを教えられ、欲することを抑圧され、チャンバラをみてその欲望を果たす人、またホラー映画を見て大声をあげ、押し込められた感情を晴らす人もいるでしょう。
《ダブル・タップ》及び《カルマ》の心理分析
《ダブル・タップ》及び《カルマ》では精神に異常をきたし、人格が分裂した場合に、抑圧されていた本能が社会ルールに抵抗し始めることを描いています。特に《カルマ》では、良く事前研究されたようで、心理学の概念を多用しています。
《ダブル・タップ》は、本能的欲望と社会規範が摩擦を起こし解決方法が見つからない場合、自ら破滅するかその人を殺すことになることを描きます。精神治療法では音楽を聞いたり、サンドバッグを殴ったりの方法で、抑圧された情緒を回復させる方法をとります。Rickは殺人願望に突き動かされ、抑制も出来ず、また治療もなされないまま、殺人を重ねていきます。
《ダブル・タップ》は2000年の作品で、《カルマ》は2002年の作です。ミレニアム以降、哥哥の役はより複雑になり、より多面的でしかも反社会的になっています。以前もわがまま、独占欲、ナルシスティックなどがありましたが、ここに到って、更に極端な形での人の暗黒面を描き出しています。抑制を失った人間がどのように社会秩序を乱すか、或は自身を破滅させるかです。
《ダブル・タップ》の分析
《ダブル・タップ》の主役Rickは射撃の名手で、人を助けのために人を撃ち殺します。作中ではこの名手がすぐに精神に異常をきたし、殺人を犯すのではありません。前半でRickの性格が語られます。彼の住居が非常に暗いことに注意してください。全体を通じて光のコントラストが非常に強く、黒でなければ白か灰色。鮮明な色は少なく、あまり明るくありません。警察官であるアレックス・フォンを描くシーンでは明るいのですが、他のシーンは全体的に暗いものです。Rickの住居も家具も服装も暗い色が多く、室内も暗くはっきりしません。これはRickの閉鎖的な様子、友達も少なく、ただ彼女のみ頑固に側にいるという様子を現しています。自閉的な性格を描いた後、殺人の快楽を味わい、殺人を重ねていくという、分かりやすい展開です。哥哥の演技の他に、場面での移動にも注目してください。各シーンでの立ち位置及びどういった方法で、役の性格を表現しているか。台詞ばかりではありません。
Rickは殺人を犯した後、本能である暴力の強烈な快感を味わうようになります。精神科を受診後、彼女に言います。「ドクターに言わなかったことがある。人を殺したと分かっている。でも喜びを感じたんだ。」彼は快楽を感じ、その快楽と向き合いますが、コントロールはできませんでした。後のフラッシュバック場面で、彼がコントロールしようと努めたが、失敗に終わったことが分かります。そして放埓に人を殺すことによって、感情を発散させるのです。
その他の特徴として、これは多くの方が指摘されていますが、哥哥の表情を映すとき、多くの場合半面が暗く、反面が明るくなっています。これはライトで両面性と異常性を表わしており、そしてRickの眼部は明らかに赤みを帯びています。哥哥は目に驚きと恐怖、そして不安を浮かべています。銃を握り抵抗していてさえ、内心の恐れが隠せない。Rickは人を殺せば殺すほど、恐れと怯えを深めていきます。引き裂かれた状態です。快楽を感じる一方で、自分の超自我がそれはいけないと責める。激しいせめぎあいの状態です。《ダブル・タップ》の哥哥は端正な外見の事は少なく、寡黙で、自分の世界に浸り、人に知られたくないことを隠していると見えます。
見て頂いたのは《ダブル・タップ》の一部です。Rickの家は全体に暗いですね。異常をきたした場面が、黄色く描かれます。洗面台を打ち壊し、鏡に映った自分に銃を向けます。自分を撃ち殺したいと思っているのです。そうしなければ、彼には道がない。唯一可能な解決法は、自分を射殺すること。この後、Rickは自滅の道をたどります。また別の場面で楊という男を殺しますが、非常に奇妙です。楊を見ることはなく下をむき、目だけで楊を射る。撃ち殺した後、楊にお辞儀をします。完全に異常な行為です。先ほど申しましたように、内心と行動が合致せず、自分をコントロールできない状況です。最後にはアレックス・フォンと撃ち合った後、映画館の外に逃れ、そこで倒れます。この数場だけでも、哥哥が完全に二枚目のイメージを捨て、今までとは対照的な姿を見せていることが分かります。
《カルマ》の分析
《カルマ》は2002年の作品です。これは幽霊映画ではありません。ホラーではなく、“心の傷と記憶”についての作品です。誰もがこういった経験をおありでしょう。苦痛の原因から逃れようとすればするほど、傷が深まり、救いようがなくなるという。人の記憶には存在を自覚しないブラックホールがあります。これは強い破壊力を持っており、精神と身体をも害しかねません。
哥哥が演じたのは精神科の医師で、カリーナ・ラムを治療します。彼女は両親が離婚して自分を捨てたという記憶のブラックホールを抱え、男友達と別れる度に傷つき、自殺未遂を繰り返します。傷はブラックホールとなっており、彼女は自覚していません。そして幽霊をみたと訴えます。医師が一晩の様子を録画し、彼女が見ているのは幻覚で、それは心の傷からきているものだと指摘します。精神科では人の潜在意識は、一大研究テーマです。フロイトのいう意識の三層構造を聞かれたことがあるでしょう。表面上は私達が感じられる“意識”。水底に沈んでいるような“潜在意識”。潜在意識が夢に出てくる事もあります。幼少期の記憶が潜在記憶となり、後の行動にも影響すると言うのがこの映画の主題です。そして哥哥はカリーナ・ラムを治療する過程で、自分のブラックホールを開けてしまいます。中学時代に初恋の相手とけんか別れし、相手が自殺した記憶です。患者の治療には成功しますが、自身が異常をきたし、彼女の幽霊を見るようになります。彼が見ているのはブラックホールが意識に現れたものです。今度はカリーナ・ラムが反対に治療者となり、愛情をもって彼を連れ戻します。
これは幻覚下で幽霊に追いかけられる場面です。最後に屋上で、彼は自分の潜在的な傷に正面から向き合います。逃げ場のない屋上で、飛び降りなければふり返って幽霊と対決するしかありません。心の傷や抑圧、潜在意識の問題は、自滅する以外に、正面から向き合うことでも解決できます。彼は幽霊と向き合うことで心の傷を解決し、それによって幽霊も消失しました。逃げれば逃げるほど傷が深まり、救いようがなくなると申しましたが、カリーナ・ラムの治療でも両親を呼び、直接感情をぶつけさせたことで、彼女は回復できたのです。
忘れたい記憶や不快なことは忘れようと努める度に、却ってしっかり記憶することになります。これは忘れようとして、正にその記憶の存在を強化するからです。唯一の解決法は、その記憶を受け入れることだと思います。それも自分だと思えたとき、害をなすことはなくなるでしょう。医師が落ち込んだ時に水泳をするシーンが出てきます。これは非常に象徴的です。心理学では人の意識は、氷山のようだといいます。彼が水にもぐるのは、いやなことを意識下に押し込めようとしているからです。水面に顔を出すとき、彼は正常な医者です。問題は記憶を押し込めようとすればするほど、抵抗も大きく、外部から何か刺激が加わると、それが爆発しえることです。
屋上のシーンは、様々に読取れるでしょう。例えば彼女が本当の幽霊だとすれば、これをホラー映画と見るなら、幽霊は彼が最後には二人の傷つけあった関係を認めたため、去ったのでしょう。しかし私は、これは自分の心の傷との対話だと思います。彼は「僕らの楽しかったこと辛かったこと。どちらも覚えている。でもあのあとは、何も覚えていない」と言います。彼がこの記憶を受け入れることで、心のしこりは解けていきます。そしてカリーナ・ラムが現れることで、愛情の力、人に気遣ってもらえることで人は立ち直れることを示します。
演じる役柄の、心理状態の追究
《カルマ》は名作だと思います。哥哥は精神の分裂状態を演じる時、自分の問題を自覚しない状態の時、例えばレイ・チーホンに問題を指摘されて否定する時など、役の心理状態と緊張感を、完璧に把握して演じています。屋上の場面でも、自分をやり直せるのは自分だけという役の心理状況を、深く理解しています。
後期の作品では、哥哥は役を一層深くまで理解して演じています。決して表面だけのハンサムではありません。インタビューでも《夜半歌聲》が表面的に終わり、顔に傷を負った心理状況のまで表現できなかったと言っています。人気を博した歌手が、顔に傷を負い、仕事においても人生においても全ての望みを断たれた後の心理状態、そこにまでこの作品が踏み込めなかったという口惜さと批判を感じます。哥哥は役に更に深く踏み込み、外形がうつくしくても、内面は薄汚れていたり醜かったりという、人の心理の明暗を演じようとしていたのです。
結びに
最後に2003年4月に香港パブティスト大学で行われた記念シンポジウムで製作された、《明星 張國榮》をお見せします。哥哥の写真と《欲望の翼》の2シーンを、哥哥の歌う《明星》にのせています。講演の最後に、映画のフラッシュバックのように、哥哥の生涯をふり返りたいと思います。
哥哥は行ってしまいましたが、哥哥が残してくれた一切のものは、彼を愛する人、彼を評価する人ならいつまでもふり返ることが出来ます。最近こういうことばに出会いました。“ある人は時間を超えられる。ある状況下では、その人を知らない人たちまでもが、その人のことを覚えている!”哥哥の一切は、これからも生き続けるでしょう!
質問及び感想
観客①
皆さんこんにちは。私は台北から来ました。洛楓先生に伺いたいのですが、もし哥哥が今もいたら、以前と違う、どのような役柄に挑戦したと思われますか?
洛楓:
それは難しい質問ですね。自分の監督作品は間違いなく撮影したと思います。それが彼の最大の願いでしたから。長年映画の仕事に携わってきて、部分的には監督もしていますし、MTVも監督しています。ウィリアム・チョンが編集した《芳華絶代》《夢到内河》などですね。監督するのも好きで、自作を撮りたいと心から願っていました。もし今もいたら、自分の映画を完成させたと思います。舞台は彼の気持しだいでしょうね。Passion Tourの後、一部マスコミに批判されて、落ち込んでいたようですから。もうコンサートはしないと友達に言ったとも聞きました。しかし皆さんもご存知のように、彼は励ましがあればまた立ち上がれる人です。私は哥哥ではないので、彼に代わって答えるのは難しいです。状況を考えれば、彼の監督作を見られたと思います。
観客①
どのような作品になったでしょうか?
洛楓:
分かりません。計画は全く公開されませんでした。“愛情の力は性別の境界を超える”というテーマと聞きました。「ある人を好きになったら、男か女かは関係ない」ですね。また《我家的女人》をリメイクしたいとも考えていたようです。李碧華の随分昔のテレビドラマですが、この2つだけ知られています。
観客②
あの日以降、私は哥哥の作品がテレビ放映されると、切っていました。しかし今日向き合う事も必要と感じました。以前95%の人は、映画の見方を知らないと聞きましたが、その通りだと思います。哥哥の演技はこんなに細部にまで行き届いているのに、分からない人もいます。映画評論家も含めて。彼はそれだけ力を尽くしているのに、自分を演じているだけだと言われて、本当に…
洛楓:
分かります。私は金馬獎の審査をしたことがありますが、よくわかります。映画評論家と言えば、多くの方は映画をよくご存知で、映画文化をリードしていらっしゃり、それを否定する事はできません。もしかすると哥哥の嗜好が気に入らなかった、或はある人たちの機嫌をとり損ねたのかもしれません。しかしこれは避けようがありません。全世界に良い顔はできませんから。しかし哥哥が特別だったのは、彼はどうすればご機嫌とりが出来るか知っていた。しかしそうしなかったのです。自分の思う道を歩きました。ハイヒールを批判されても、次には長髪で登場しました。コンサートに新しいアイデアをと考えていたからです。なかなかできることでなく、私は感服しています。ずっときれいな役を演じて、精神異常者などやらなくても良かったのに、挑戦したのです。俳優業に満足でき、お金も稼げたのに、どうして監督しなければならなかったのか?監督は大変です。投資者から探さなければならない。彼に投資してくれる人もいたのですが、後に問題が起こって、大変なストレスだったでしょう。また俳優も探さなければなりません。人が出演依頼をしてくるのを待っていればよかったのに、新たなことに挑戦したかった。そして監督できる自信があった。私も彼なら出来たと思います。
もし哥哥のことを広めたいなら、彼の精神を自分のものとしてください。平坦な道は誰でも歩けます。険しい道には挑戦が必要です。哥哥はその勇気を教えてくれました。台湾で読んだのですが、多くの同性愛者が哥哥が勇気をくれた、魅力的な生き方を教えてくれたと感じているそうです。「自分はこんな外見だけど、それでも自分の生き方は美しい」のだと。
観客③
私はLeslieが好きではありませんでした。4月1日以降好きになったのです。非常に好きになりました。現在彼がどこにいるのか、天国か地獄かは知りませんが、彼はこの世界で使命を果たしたと思います。彼が去ってから、社会はうつ病に関心を持ち始めました。また周囲の人を気遣うようになりました。彼はいなくなってしまいましたが、互いに気遣い傷つけ合わないようにすることが大切、これが私の感想です。
洛楓:
哥哥は天国にも地獄にもいません。私達の側にいます!
観客④
先ほど洛楓先生が仰った英語論文は、どこで読めますか?
洛楓:
あの論文はまだ正式に発表していません。月末に台北でマスメディアについてのシンポジウムに参加する予定で、そこで発表します。文章は英文ですが、北京語で発表を行います。以前に中国語で哥哥について書いていますし、出版したものもあります。あの時哥哥は、大変力になってくれました。出版時に肖像権料について相談したところ、細々とその金額を計算することなく、ただ掲載予定の写真が十分きれいじゃないと言いました。そして自分の手持ちのものを、使わせてくれたのです。
英語で書いたのは、世界に理解して欲しかったからです。まだ推敲する部分もありますが、内容は彼の舞台上での衣装(異性の服装をする事も含め)、芸術創作そして役をいくつか取り上げます。香港メディアと海外メディアが如何にコンサートを評価したのかから、世論形態の制限とその問題の所在について論じており、結論が物議をかもすかもしれません。アーティストが舞台上で表現したことについて、どうして無責任なメディアの攻撃を受けるのでしょう!大量の資料を調べて大変ではありましたが、力の見せ所だと思います。発表後「哥哥香港網站」でお知らせします。