第3回セミナー(日本語)

The 3rd Leslie’s Seminar

(Translated by Miho)

日期:2004.04.03
地點:香港九龍灣國際展貿中心演講廳
主辦:張國榮藝術研究會、哥哥香港網站

主持…..榮雪煙(內地導演)
**張國榮的人間情…..莫何敏儀(前電視台高層)**不作公開傳播
張國榮文化:主流 vs 非主流…..馮應謙(大學教授)
說張國榮電影影像的本質…..盧偉力(大學教授)
光影裡外的張國榮…..羅志良(電影導演)

別れは消滅ではない。

榮雪煙:

別れと消滅は別の概念です。哥哥が去って一年になりますが、しかし一年という時間が過ぎ去っただけなのです。本日これほど多くの皆さんが、哥哥のために共に集い、彼の芸術と人格を研究し、継承・発展させようとしているのはこの二文字「哥哥」、或は「張國榮」の三文字のためです。彼はまだ私たちと共にいます。時がたっても、ある種の記憶は、心の底にあるものは、消えないものです。

この一年皆さんはその善し悪しを問わず、様々なものを目にされたと思います。私たちはやるべき事を、力の及ぶ限りやらなければなりません。社会にはまだ誤解が存在し、哥哥の評価は部分的にしかなされていません。張國榮は私たちの心の中にあり、その思い出は変る事はないでしょう。これが歴史なのです。張國榮はこの歴史の中に留まり、過去は改変される事はありません。また将来に渡って、哥哥が私たちに道を示してくれる事も変らないでしょう。社会が変えられるのはその表層だけです。私たちは哥哥の精神を発揚し、私たちの存在こそが「哥哥精神」の存続だと証明するでしょう。時は流れますが、私たちが行った事は、その大小に関わらず確かに存在し、過ぎ去ったそのひと時は永遠に存在する事になるのです。

私はある文章の結びに、次のように記した事があります。「時が流れ続ける限り、風は吹き、あの笑顔も、歌声も、姿もそこにある。張國榮はまだそこにあり続ける。」 彼の歌声と姿はまだ存在し続けます。張國榮はそこに居続けます。私たちの側に。

本日の検討会は哥哥を心から愛する方々が集い、哥哥に敬意を表するものです。お越しくださりありがとうございます。

張國榮の文化主流 vs. 非主流

社会の「張國榮」回避

榮雪煙:

まずは馮應謙博士の「張國榮の文化―主流 vs. 非主流」です。馮博士は香港中文大学マスメディア学院で、香港の若者文化、流行文化を研究されています。

馮應謙:

4月1日付の明報を読まれたでしょうか?私とある哥迷が長い記事を載せております。内容は張國榮・哥哥の文化への貢献です。本日もっと詳しくお話いたしますが、その哥迷とは私の教え子で鄭淑華といいます。彼女は中国の著名な詩人 蔵克家が魯迅の死を悼んだ
言葉で哥哥を形容しました。「ある人は生きていても、すでに死んでいる。ある人は死しても、生き続ける。」この言葉は私の気持ちも非常にうまく代弁してくれています。哥哥がいなくなった後、いかに哥哥の文化を継承発展していくか、それが非常に大切だと思います。

本日は私の専門である、マスメディアを中心にお話します。現在のメディアは哥哥をよく取り上げますが、彼がもたらした文化変革についてはほとんど触れておりません。先ほどカレン・モクさんのお母様が哥哥の“Unique”について仰りましたが、まさにこの“Unique”が文化的貢献なのです。

哥哥が去ってから、追悼活動が多数行われました。テレビでは記念特別番組、映画関連では“張國榮人間光影展”等で、出席された方もいらっしゃるでしょう。今年の国際映画祭も哥哥とアニタ・ムイを主役にしています。この一年追悼イベントも多く、哥哥は遠く離れてしまったけれど、まだすぐ側にいる気がしています。哥哥はある文化のシンボルとなっています。追悼イベントに参加して感じるのは、私自身と関連が深いこともあるのですが、哥哥の追悼活動が学術界の議論となっていることです。これは哥哥の文化が継承発展されている証拠で、大変喜ばしいですね。しかしメディアが語る哥哥の文化的功績と、学術界で議論されている内容には、隔世の感があります。哥哥の若者文化や性別文化への貢献など、メディアは多くの事を語っていません。

メディアは哥哥の追悼活動に集中し、その文化的功績はほとんど取り上げていません。アニタ・ムイが亡くなった時、政府高官が花を送り、中学で讃えさせたのとは大違いです。哥哥という存在は敏感な問題をふくみ、中学で語ろうとしても教師は避けてしまうのです。

哥哥は様々な面で、文化に震動を起こしました。80年代には反抗的な若者文化。彼のファンは反抗的という言葉で形容されました。90年代にはパフォーマンスでもプライベートでも、社会の性別の概念に衝撃を与えました。そして最後には自殺など、全て現代香港社会の主流が受け入れないことです。メディアが生前の活動を紹介するにしても、こういった点について避けようとし、慎重になっていると感じます。この社会を変え、哥哥の文化を継承発展していけるでしょうか?

80年代青年文化への貢献

馮應謙:

84年および85年の哥哥が受賞するシーンを見て頂きました。このシーンを選んだのは、まず哥哥を追悼する面からと、私にとって特別な意味があるからです。私の母は故人ですが、張國榮が非常に好きでした。母と一緒にテレビで見ていたのを思い出します。母は開放的であったと言えて、嬉しく思います。当時哥哥のファンは反抗的な若者で、抑制がきかない。アラン・タムのファンと争っても、アランのファンの方がまだ大人しいと言われていました。

当時の張國榮は《Monica》《愛慕》《不羈的風》《少女心事》などを歌う歌手で、保護者からみると浮ついて、反抗的という印象だったと思います。だから母と一緒に見ていた事が嬉しいのです。当時例えば《第一次》は青少年に悪影響を与えるとメディアは批判しました。そしてメディアは健忘症にかかったようです。彼らが現在哥哥を褒めちぎっているからです。人気がでれば褒め、メジャーにならないものは批判する。某歌手が若者文化のシンボルとなり、若者の反抗を象徴するようになると、往々にして批判を受けます。これは哥哥についてもアンフェアで、若者文化に対してもアンフェアでしょう。

80年代哥哥の若者文化への貢献は、不良的な反抗的青年をメジャーにしたことです。ちなみに現在の青年文化とは何でしょうか?少しばかりの反抗、これが現在の若者が創り出したものですが、社会主流で考えられているのとは、少し異なるようです。メディアの許容範囲が非常に狭いと感じます。社会主流に受け入れられれば表現できる。新たに創造しても、主流に受け入れられなければ、マイナスの評価をされてしまうのです。

歴史が証明しています。哥哥を例にとってみれば、ここに座っている皆さんが証明です。哥哥のファンとして、全てがプラスであり、社会に対して貢献しているのだと言えます。これは哥哥の青少年文化への貢献です。

90年代性別文化への貢献

馮應謙:

90年代に哥哥は香港の性別文化を多元化させました。これが文化的貢献です。

97年リターン以降、彼は自らの恋と同性愛者であることを明かしました。映画では例えば《覇王別姫》《君さえいれば―金枝玉枝》《ブエノスアイレス》などで、女性的な美しさを表現し、性別の曖昧性を語りました。同性愛を恐れていたメディアも、だんだんに学習し、受け入れるようになりました。

先ほどご覧頂いた《大熱》のMTVは、香港の文化史上の大きな境界線だと思います。これは男女の決められた役割を消滅させた、初めてのMTVだからです。例えば張國榮は男の衣服、女の衣服、アクセサリーを全て身に付けています。メディアのほとんどは、女性はスカートを履く、男性はびしっと着るべきなどの、定められた性別形象は受け入れましたが、そこから外れたものは拒否しました。哥哥は「第三性別」とでもいうべきものを創造しています。男女以外の別の性で、香港歴史史上、哥哥は多元的な性別文化を取り入れた初めての歌手であり俳優です。惜しむらくは、現在のメディアがこの点を軽んじていることです。

テレビは香港ではメジャーな媒体ですが、ここでも第三の性別は全く許容されませんでした。電視台作成の《FM701》をご覧になられたことはありますか?劇中で先ほどの《大熱》を茶化しています。男でもなく女でもなくしていると批判していますが、ここからテレビ界の偏見と拒否がうかがえます。その後の《男親女愛》のなかで蒋志光が演じた役に到り、テレビは初めて同性愛を受け入れたと言えるでしょう。

哥哥は主要なメディアが受け入れる前に“Uniqueness”、主流文化が言うのとは異なる性別を見せてくれました。追悼番組で《Passion Tour》のシーンが出ていましたが、完全に男性的パフォーマンスだけで、あの雌雄同体の形象は削除されていました。不安を感じます。哥哥がいなくなっても、まだ主流文化は彼の存在を受け入れない。今後は皆さんでこの文化を継承・発展する必要があるでしょう。哥哥の性別文化は先進的なものです。いつか香港の主流文化も受け入れる事を望みます。

「張國榮精神」:I am what I am.

馮應謙:

哥哥のこういった性別文化や若者文化はもはや、香港では集団的記憶となっています。彼は2つのものを残してくれました。第一は見られる映像。ハードウェア、有形物の事です。しかし哥哥の更に偉大な貢献とは、無形なものです。文化に与えた衝撃。例えば“Unique”な男女の形象や、青年像などです。現在のメディアはハードウェア部分のみ再映し、重要な貢献であるソフトウェアのほうを軽んじています。文化的貢献に対して、報道しない或は部分的にしか伝えない。もしくは歪曲して伝える。いつになったら主流文化が哥哥の独特な面を受け入れるのでしょう?数年もしくは数十年かかるかもしれませんが、これには皆さんの努力が必要です。

哥哥のファンとして、いかに彼の文化的貢献を受け継ぐか?その時の重要ポイントの一つが、先ほどカレン・モクさんのお母様が仰ったことだと思います。哥哥は常に「私は私。I am what I am」ということを強調していました。俳優・歌手として彼は、一度も意図的に主流文化を変えようとしたことはありません。また主流文化に、このように受容して欲しいなどといったこともありませんでした。彼は自分の立場、役柄を通じてその思う所を表現しただけです。彼独特の性別表現、独特の若者文化の表現。全て自らの本分において行い、主流文化、保守的な文化に受け入れられることを願いはしなかったのです。これは学ぶべき点でしょう。

皆さんはお若いですから、哥哥の姿勢に学んでください。80年代多くのメディアが彼を悪く言っても、哥哥はほとんど釈明する事がありませんでした。90年代雌雄同体の演出が批判された時も、自分が何をしたいのかと説明もしませんでした。香港の文化を振り返ると、哥哥は各年代において香港文化に彩りを添え、多元化させています。哥哥が自分の文化、自分の行き先について、しっかりとした姿勢を持っていたことは明らかです。ここから彼の精神と文化を受け継ぐには、個人的目標や方向を決めたら、それに信念を持つことが必要と分るでしょう。

現代社会の許容範囲はきわめて狭く、メディアを見ても、若者の創造性も埋もれてしまっています。性別文化への理解を示しても、小さく扱うのみです。現代メディアは哥哥の文化をまだ許容できていません。将来香港メディアがどの程度哥哥文化を受け入れるか、それはメディアが異文化をどのように扱い、認め、受容するかに影響するでしょう。最後に私が申し上げておきたいのは、私たちは哥哥のファンに過ぎず、彼のように崇高な地位にもありません。
香港文化に貢献もしていません。しかしそれぞれが一分の力を出し合えば、哥哥のために
一言ずつでも語れば、将来メディアに削られたシーンも、香港社会の主流となりうるということです。

榮雪煙:

馮博士、ありがとうございました。社会現象を分析する事で張國榮文化を語っていただきました。早期の若者文化、後期の性別文化を含めて。実際哥哥の文化というのは多様で、先ほど馮博士が仰ったように、私たちそれぞれが発掘していくものでしょう。ありがとうございました。

張國榮電影影像的本質

銀幕俳優としての本質:欲望の対象

盧偉力:

皆さんは張國榮の映画について、良くご存知でしょう。何度も見返されたものもあると思いますが、本日はもう一度見られた時に、更にすばらしく見えるように解説を加えたいと思います。銀幕俳優としての張國榮の本質についてお話しします。私は香港パブティスト大学で映画、テレビ論を教え、舞台劇にも関わっておりますので、パフォーマンスについて関心を持っております。本日はこの方面についてお話しましょう。

張國榮は疑うべくもなくアイドルですが、ではどういったタイプのアイドルなのでしょうか?皆さんそれぞれ、特別な意味をお持ちだと思います。アイドルにはリーダータイプがいますが、張國榮はこのタイプではありません。もう一類は代表タイプです。その人が代表して話してくれる。その人は特別な存在である。張國榮はこのタイプのアイドルでしょう。彼は外部に勇敢に立向かい、代表性も備えていました。私は彼の性傾向だけをさすのではありません。彼は人生や愛情に対しても勇敢でした。

張國榮の人生の中で、その性傾向を明かしたのが重要な決断であったことは否めません。この行動が人を傷つけた事もあったでしょう。例えあなたが傷つかなかったとしても、適応するのに時間が要ったと思います。そして適応過程であなたは「愛」には様々な方式があると理解したでしょう。つまり張國榮を通じて、あなたは人は様々な方法で愛せる。それが通常と同じであろうと、違っていようと。愛さえあればということを学んだのです。張國榮を誇りに思います。彼から人生の困難に立向かう勇気を貰いました。

そしてもう一類のアイドルは、欲望の対象となるタイプです。張國榮は多くの観客が欲望の対象としたでしょう。20歳21歳頃は特に。彼は背が高く体格が良い方ではありませんが、近づけるように感じられるのです。そしてある環境下では欲望の対象となりえます。これは全く自然な事で、流行文化の一部分でもあります。銀幕上の女性は男性の欲望の対象であり、銀幕上の男性は女性の欲望の対象です。このことは皆さんに同意いただけると思います。しかし張國榮は一般的欲望の対象とは少し異なっています。これが彼の映画俳優としての特質であり本質なのです。

憂鬱な姿の本質:彼が傷つけられるのは耐えられず、彼を愛するようになる。

盧偉力:

《烈火青春》をご覧になられましたか?この作品で、張國榮が青っぽい部屋に憂鬱げに寝転がり、なくなった母のラジオ放送を聞いているシーンがあります。この憂鬱げな張國榮は《欲望の翼》、その後の作品にも見られます。この憂鬱さが、彼を護ってあげたいと思わせるのです。彼は傷つきやすい。傷つけてはいけない、彼が傷つくのは耐えられないから。

この感覚はファンに微妙な作用を及ぼします。女性ファンはまず彼を欲望の対象として見ます。しかし憂鬱さが勝った時、護るべき存在に見えます。そして愛を育み始め、欲望に愛を加えて、長い関係を築く事になるのです。これは現実の生活の中でも同じで、欲望の対象でなければ恋人にはなれないし、欲望だけでは長く付き合うことは出来ません。張國榮の特質は、欲望を引き起こした後、ゆっくりゆっくり彼を理解させ、そして愛を育ませるのです。彼が傷つけられるのは耐えられず、自然と彼を慈しむようになり、そして愛するのです。

禁忌を破る:「性別文化」の牽引役

盧偉力:

「愛」には様々な形と層があります。張國榮を考えると、先ほど馮博士が指摘されたように、彼は「性別文化」について、多大な貢献をしました。ここで性別文化についての映画を分析したいと思います。《ブエノスアイレス》《君さえいれば》《覇王別姫》《家有喜事》などがありますが、これらは段階を経て発展しています。まず《家有喜事》から始めましょう。男勝りのテレサ・モウと張國榮演じる女々しい青年がおりますが、ある夜意地を張り合っていた敵同士が、強い男と弱い女に変ります。《家有喜事》は90年代初の作品で、性別問題の扱いも間違いや誤解と言う形です。次の段階は《君さえいれば》に代表されます。あのピアノ室でのシーンを覚えていらっしゃるでしょう。張國榮は“死なば死ね”という気持ちで、アニタ・ユンを追います。あのシーンは香港映画史上に残る名場面でしょう。最後に張國榮が追っていたのは女性だと分るとしても。しかし分っても遅すぎました。“死なば死ね”と思い、行動した後でしたから。《家有喜事》とは異なります。《家有》では間違っていただけですから。《君さえいれば》では、悩み、その後「ある人を愛し、苦しい時を過ぎて、そしてその人の性別は考えなくても良いと分った」と言います。同性愛の観点から考えると、張國榮はこの作品で一段高みに上っています。しかしアニタ・ユンの役は男の振りをした女の子に過ぎません。またこの作品の2では、アニタ・ムイとアニタ・ユンの同性愛も描かれますが、張國榮とは関わりが薄いので触れません。

この時期張國榮の役柄には、恋愛の禁忌を破るものが多くあります。例えば《大三元》では「神父が自らに忠実に、遊女を愛せるか」というテーマです。この問題は作品中で解決され、納得できるものでしょう。この二人の愛情が許容できるのは、それが流行文化の要素であり、そして張國榮とアニタ・ユンによって演じられるからでしょう。

早期の映画で禁忌を破るものは《キラーウルフ》です。主人公は魔女を愛するかという選択を迫られますが、彼の選択は愛する。それも激しく愛する事でした。張國榮の映画世界にはタブーの要素が多く、しかも彼が演じるからこそ真実らしいのです。これが彼の映画の本質です。例えばエリック・ツアンが演じたとすれば、もともとタブーも抑圧もありませんから、何も悩む事はありません。《キラーウルフ》においては、卓一航が若き日より武芸を良くし、清冽な人柄でありながら禁忌を破ろうとするので、共感できるわけです。

次に取り上げる作品は《覇王別姫》です。この作品はかなり複雑で、同性間の愛情を扱った一種の禁忌を扱った作品です。映画映像的には特別優れているとは思いませんが、非常に印象に残る作品です。張國榮、コン・リー、張豊毅の三角関係が描かれますが、張國榮とコン・リーは敵であり友でもあります。コン・リーの存在が張國榮と張豊毅の愛情の“欲”の面を描き出しているからです。《覇王別姫》では社会的抑圧のために、禁忌とされる愛情があることを描き出しています。程蝶衣は壁にぶつからざるを得ず、一生悩み、最後には自らの命を断ちました。90年代初め、張國榮自身もこの方面の圧力を受けていたのなら、彼は役柄を通じて社会に理解を求めたのかもしれません。《家有喜事》の男女交錯から《覇王別姫》の抑圧、《君さえいれば》の“死なば死ね”という気持ち。そして《ブエノスアイレス》では、同性間の愛情の深さ広さを示してみせた。これが張國榮映画世界の辿った道です。

「愛」を勇敢に受け入れて生きられるか?もしあなたがある人を好きになったとして、その人はあなたの先生かもしれないし、生徒かもしれない。もしかするとあなたと同じく男性かも、いやあなたと同じく女性かもしれない。こういった状況に立向かえますか?世界中の人にこの愛を語れますか?多くのアイドルは妻や男女の友人を隠しますが、張國榮は恐れませんでした。自らに忠実に、どの様に愛情、人生、芸術に相対したのでしょう?これゆえに張國榮の演技は魅力を増しました。正規のトレーニングを受けておらず、自身の生命、資質・経験を芸術創作のために投げ出したのです。彼は仕事を愛し、自らの事業の成績を尊びました。

(観客より質問あり。:私は中国から来たファンです。私は80年代に生まれ、哥哥を好きになったのもカムバックしてからです。彼を知って、ファンになったことは誇りです。廬博士に伺いたいのですが、哥哥は様々な役を演じています。彼のキャリアの中で、デビュー当初からトップに上りつめ、その後の段階で、どの作品、どの役が最も彼のその時期の特質を表わしていると思われますか?博士が最もお好きなのは、どの作品ですか?)

私は張國榮の特質が好きです。彼の本質は「愛」です。彼は自らの愛に忠実で、その愛を仕事や芸術にも投影させました。

「逆境を打ち破る力」

廬偉力:

《色情男女》で哥哥は失意の監督を演じました。《流星》でも同様にハンサムな役ではありません。しかし非常に力を入れ、《流星》では報酬を受け取らなかったと聞いています。友達を思う気持ちと、映画への情熱からでしょうか。またこういった作品から、彼のもう一つの特質が分ります。逆境を打ち破ろうとすることです。人生においての逆境は社会状況によるもの例えば失業やIT株の暴落などでもありえますし、自分が原因の事もありえます。例えば失恋後や試験や結婚に失敗した後は、良い決断が出来ないでしょう。この2作は逆境にあるとき、どうやって抜け出すかを示しています。彼という存在を通して、彼の生命を通して示される時、非常に魅力に溢れます。そして彼一流の憂鬱さによって、真実らしさも増すのです。

「性格俳優」としての本質

廬偉力:

彼の性格にかなり近く、うまく演じているのが《チャイニーズ・ゴースト・ストーリー》でしょう。寧釆臣は善良ですが、これと言う長所がなく、江湖での能力は最低レベルで、護って貰わないといけないほどです。この作品には張國榮の特徴が良く出ています。彼が演じたからこそ、この役は真に迫ったと思います。 面白い事に、護りたくなる人は華奢でたおやかな人でなくても、特に才能がなくても、善良な人であれば良いようです。これは現実でも同じで、善良な人であれば、良くしようと思います。張國榮は特殊な典型を演じました。そして他の映画にもこの本質は見られます。《狼たちの絆》《男たちの挽歌》では、彼は“兄貴”ではありません。ここに何らかの意図があると信じますね。彼は英雄ではなくて、やはり護ってあげるべき存在です。

また若い頃は磨かれない玉のようで、新鮮な魅力があります。例えば《レモンコーラ》など、作品としては平凡でも、この時期の魅力は後にはないですね。

「性格俳優」としての演技

廬偉力:

《カルマ》では複雑な感情の変化をワンシーンで表現する事が求められました。張國榮は非常にうまくやったと思います。まさに実力派です。

俳優は三種類に分けられるでしょう。「類型俳優」似たような役ばかり演じるタイプ。「気質俳優」自分の気質に似た役を演じるタイプ。「性格俳優」役柄の性格を演じ分けるタイプ。彼はデビュー直後には白馬の王子タイプに作られましたが、合わない事はすぐ分ったと思います。徐々に彼の性質―反抗的が見えましたが、白馬の王子では反抗できないからです。以降10年来、気質を生かして演じてきましたが、《色情男女》より「性格俳優」になったと言えるでしょう。脚本中の人物を演じる事を目標とするようになりました。映画芸術製作上、張國榮は尊敬に値する俳優です。

作品に学び、「張國榮」を生かし続ける。

廬偉力:

先ほど「哥哥を懐かしみ、哥哥の芸術的成果を評価するうえで、社会と民間団体の差を感じるか?この問題についての見方は?」との質問を頂きました。社会的か民間かは、あまり差はないと思います。張國榮を追悼すると言うのは個人的なことですので、世界中で誰もが追悼しなくても、あなたがするべきと思えば、追悼なされば良いと思います。それが重要でしょう。確かに哥哥のある一面は、現在の社会では禁忌とされています。広い心で、社会がもっと広く受け入れてくれるように努力が必要でしょう。その価値ある存在を顕彰しようと力を尽くす人がいれば、多くの人がその存在の輝きを知ると思います。力を尽くす事は、その存在に加わるも同じなのです。

香港も実際かわいらしい所で、北京よりいらっしゃった方が「張國榮が好きだから、香港が好き」と仰りましたが、私は感動しました。香港人のとやかく言わない所もかわいいでしょう。やるべき事は、彼らは自分からやるのです。

香港のアイドル級人物には単なるアイドルもいますが、将来に渡り道を照らしてくれる人物もいます。例えばブルース・リーは逝去して30年余ですが、彼を惜しむ人は後を断ちません。彼を理解し、カンフーを習い、自分への挑戦を学ぶ。張國榮も自らに挑戦し続ける人でした。本日皆さんは彼の芸術について、認識を深められたと思います。今からどの部分を人生の軌跡上で明かりとできるか考えてみてください。また何が哥哥のために出来るか、考えてください。記念日に彼の作品を見直すだけでなく、そこに留まらないで下さい。努力の方向を変えましょう。張國榮が「愛」を追究し実践したように、価値を生み出しましょう。あなた方の奮闘に大いに希望が持てると思っています。

光影裡外的張國榮

哥哥から羅志良監督への話

榮雪煙:

哥哥は出演56作品の中で、変遷過程をたどりました。先ほど廬博士が仰った様に青春映画から、中期の脱皮、そして性格俳優への発展です。覚えていらっしゃるでしょうか?哥哥はインタビューでこう答えています。「自分は以前にはなかった様な役がやってみたい。例えば殺人鬼なんか」と。ですから、哥哥にこのチャンスを与えた監督には感謝しなくてはいけません。次は羅志良監督です。

(哥哥:羅志良。彼の作品に精神科医師の役で出たところだよ。幽霊に出会ってしまう話でね。監督はすごく打ち込んでた。彼は新世代の監督の中で、素質があって、王家衛の後を継げる人の一人だと思う。外国にも受けるだろう。今まで3本出演したけど、テクニック的にも巧くなってる。でも僕がやりたいのは・・・自分で監督をやりたいんだ。僕が監督になったら、現場のスタッフ全員、俳優も全員楽しくやって欲しい。これは彼にも出来ていない事さ!)

愛を演じる生命

羅志良:

私の立場からは、哥哥の演技が良いか悪いかは分析できません。私の知っている哥哥について、皆さんとお話したいと思います。

私は30代で、初めて哥哥を見たのは16,7歳です。当時はもちろん一緒に仕事をしたのではなく“湾仔十八本”というバーで、初めて張國榮を見ました。クリスマスで、私はファンでした。スターにほとんどあったこともなく、どきどきしましたね。張國榮はレコード会社の人に頼まれて、そこで歌ったそうです。バーなどで歌う事を見下す人もいますが、哥哥は違いました。ほんとに演じ、歌う事が好きなんだと分りました。歌うのが好きだから、聞いている人にも幸せになって欲しいというような。これが初めての出会いでした。

全ての人へ心遣い

羅志良:

次に会ったのは《楽園の瑕》で副監督をした時です。その時哥哥は「王家衛監督の要求は高い。それに応えるので毎日大変だ。緊張し続けて、毎日同じ表情をするのも大変だ。」と言っていました。はっきり覚えているのは、ある日大変疲れて、明日の連絡をどうしようかと悩んでいた時、哥哥が「心配するなよ。何事でも一歩下がって考えたら、何でもないよ。全て明日になったら過去になるんだし、解決できない事はないんだ!」といってくれたことです。この言葉は一生忘れません。皆さんもこの言葉に倣って下さい。本当に、一歩下がってみれば、明日になれば全て過去になるのです。解決できない困難はありません。当時の大スターが、駆け出しにここまで言ってくれるなんて、非常に特別に感じました。彼は他の人に心配りが出来るのだと感心しました。スターになってスタッフと距離を置く人もいますが、彼は違いました。お茶汲みの人にも良くして、全ての人に細やかに気を配っていました。

《楽園の瑕》での哥哥

羅志良:

《楽園の瑕》では、ワンシーンを30回も取り直す事がありました。これは王家衛の撮影では良くある事ですが、見ているほうも辛くなるほどでした。カメラを固定しておいて、哥哥は長剣をふるってカメラに接近してくるのですが、その位置がなかなか合わず、哥哥は30回も往復していました。不満を言ったり、監督の要求に疑問をもったりする俳優もいますが、哥哥は監督を信頼していたのでしょう。何も言いませんでした。もう一度と言われれば繰り返す。自分のすべき事をする。その他のことは考えないという姿勢を教えられました。これが副監督時に知った哥哥です。

《色情男女》での哥哥

羅志良:

次には《色情男女》で仕事をしました。初め想定した俳優は哥哥ではありませんでした。しかし「脱ぐ。しかも臀部まで」というと、他の俳優は断りました。私はBig Starの哥哥もまず断るだろうと見ていました。しかし台本を読むとOKと言ってくれました。その次に「でも脱がないよ」と言われるのを心配していたのですが、「脱ぐのが必要なら、絶対脱がなきゃいけない!」と言ってくれたのです。そして作品中の監督は成人映画を拒否している。もし脱がないならこの映画を撮る意味がないと言いました。彼は自分をスターというより、一人の俳優だと思っていたでしょう。これは大きな励ましでした。出演俳優がいないかと思っていたからです。現場でも「恐れる事はない。この作品はこう撮るべきなんだから!」と励ましてくれました。

これは私の監督第一作でした。ですので、心配もあったのです。例えば哥哥は私が《楽園の瑕》の副監督だった事を覚えているかという事です。哥哥はしっかり覚えていてくれ、現場についた頃には、以前の感覚を取り戻していました。いつだったか、7、8回取り直したシーンがあり、私は哥哥に拒否されるかと思ったのですが、新米監督をないがしろにすることもなく、続けてくれました。友人たちは新米監督が大スターを使うとなめられると、みな心配してくれましたが、哥哥に限っては絶対ありませんでした。

また哥哥は他の俳優を積極的に助けてくれたのです。当時新人だったシュー・ケイとカレン・モクをサポートしてくれました。皆で一つのグループで、自分だけでなく他の人もうまく演じなければというのが哥哥の意見でした。新米監督の私が巧く指示できないとき、哥哥は非常に協力的で、彼の力がなければ、あの様な効果は出せなかったでしょう。

哥哥が監督した劇中のシーン

羅志良:

最後のラブシーンについて、プロデューサーの小寶と話していると、哥哥が、「そのシーンは劇中で監督をするだけでなく、実際に自分が撮りたい」と言いました。劇中の監督が実際に監督するというのも面白いです。また非常にうまく撮ったと思います。

このシーンについて、私が撮ったものか?感じが違うが?とすぐに聞かれました。私が撮ったのではありません。哥哥は芸術的に美しく撮っています。これは彼の表現法です。哥哥が撮影をしている間、私は現場を離れていました。これは喜ばしいことです。映画は一人の仕事ではない。映画はグループの仕事であること。どうやって一緒に仕事をするのか、俳優を信頼するとはどういうことか、いかに演技を助けるか?それを教えてくれたのは哥哥ですから!

《ダブルタップ》での哥哥

羅志良:

《ダブルタップ》では哥哥の勤勉さに、頭が下がりました。射撃を知らなかったので、一ヶ月真剣に習ったのです。まずは本物で、そしてモデルガンで。射撃はかなり疲れるものです。哥哥のプロ根性が分ると思います。

またこのときも共演者を良く助けてくれました。80年代と90年代の俳優は違うのかもしれません。今では自分の役以外は考えない人が多いです。哥哥は相手が感情投入し易いようにと、自分が写らないシーンでも、感情を込め、表情を作ってくれました。監督の立場から言えば、彼が写るシーンまでに情緒を回復してくれなければ困るので、そこまで投入しなくて良いと言ったのですが、哥哥は手を抜く事はありませんでした。実に尊敬に値します。

《カルマ》での哥哥

羅志良:

次は《カルマ》です。このとき子供の頃の夢遊病の経験を加えたのは、哥哥のアイデアによります。この作品では、屋上での演技が、多くの人が真に迫ると賞賛していますが、私も自由自在の域に達していると感じました。何もセットのない状態で、空気に向かって演じるのは至難の業です。すばらしいの一言ですね。

「些細なことも、取りこぼしたくない」

榮雪煙:

中国での撮影時、哥哥はワンシーンを撮った後見直して、他の方法や、自分のアイデアを提案したそうですが、そういったことはありましたか?

羅志良:

そういうことはありませんでした。基本的に話し合って、共通認識をもってから始めますから。また哥哥は未完成品は見ないのです。役柄について話し合おうと言うと、絶対来てくれます。台本について議論すると、自分の演技法について述べたり、厳しい言葉もいったりします。「些細な事も、取りこぼしたくない」というのが信念でした。そしてどんな時でもそこから何かを得ようとしている感じでした。そして他愛のないシーンでも、全力で臨んでいました。

映画撮影過程を楽しむ

榮雪煙:

哥哥と3作を撮影されましたが、哥哥の俳優としての変化には気付かれましたか?

羅志良:

分りませんでした。ずっと一緒にいると小さな変化は分り難いものです。例えば髪が少し伸びたとか。もちろん人は毎日変るものですし、状況もそうです。しかしそんなに大きな変化は気付きませんでした。私と撮影した頃、哥哥はすでに無欲無求の境地に入っていました。報酬や名誉のためでなく、楽しむために出演していたと思います。価値のあると思う映画に出演し、その撮影過程を楽しむ。名誉や利益のためではない。私が出会った哥哥は、そういう心情でした。ほんとに自分は幸せだと思います。あまり辛い批評もされなかったでしょうし。映画撮影を心から楽しむ人。それが哥哥でした。

榮雪煙:

ありがとうございました、羅監督。哥哥は良く「いろいろな役に挑戦したいけど、誰もオファーしてくれない」と言っていました。その意味で、羅監督は機会を与えられた訳です。感謝します。

交流及分享

《ダブルタップ》および《カルマ》での演技

榮雪煙:

これからは交流タイムです。哥哥の芸術、作品、人となりについて何か疑問があれば、ゲストの皆さんにお聞きください。では始めましょう!

観客①:

私は北京から着ました。羅監督。哥哥の全ての作品には革新的な部分があるのは、明らかだと思います。しかし現在の映画評論界は、メディアの評価も含め、彼にアンフェアだと思います。例えばどの作品も彼の素地の部分で演出しているといような。特に《ブエノスアイレス》では、「彼はゲイだから、当然そのように演じられる」といわれました。しかし何寶榮の性格は、哥哥とは違います。その後の2作が羅監督の《ダブルタオップ》と《カルマ》です。多くの人が、本人に似ていたから、当時の心理状態に影響して、後の出来事に繋がったのだといいました。

プロの俳優として、哥哥は自分の本質を映画に投射していたのではなく、先ほど廬博士が仰ったように、性格俳優であると思います。役の性格から考えて、芸術のために演じていたと思います。そこで羅監督に伺いたいのですが、哥哥は《ダブルタオップ》と《カルマ》において現在言われているように、心に問題を抱えていたのでしょうか、それともなかなか役から離れられなかったのでしょうか?哥哥のために、明らかにしていただけたらと思います。よろしくお願いします。

羅志良:

冷静に見ていただければ分るのですが、《ダブルタップ》での哥哥は悪役です。そしてこれは彼の性格ではありません。私は哥哥に警官役と悪役と選んでもらったのですが、スターになってから悪役はやってないから、ぜひ悪役をと言いました。この役が哥哥の性格と言うのは、奇妙に感じます。まず銃の扱いも知らないし、銃が趣味でもない。彼は役に入り込むのであって、自分自身を投射するのではありません。

《カルマ》は心理を扱っています。私も哥哥も、その他の出演者も、まず資料を集めました。現在の作品では、必ずと言っていいほど資料を集めて、準備してから撮影に入ります。もし自分を演じたのなら、そんなことは必要ないでしょう。私たちは少なくとも2ヶ月は資料集めに費やし、病院の精神科を訪ねたりしたのです。だからこそ、彼もうまく演じられたのです。

「感覚転移」の演技

観客②:

廬博士と羅監督に伺いたいのですが、哥哥の自作自演作品《煙飛煙滅》で、大変感動し、また驚いたシーンがありました。それは子どもを寝かしつけるシーンなのですが、子供の背中を直接優しくなでて、寝入ってしまうと布団を掛けなおしてやるのです。私の娘によると、皮膚を直接なでてもらうと、安心できるそうです。哥哥は父親になったことはありません。それなのにどうして、ここまで愛情が示せるのでしょう?これが力量、またインスピレーションが働いているのでしょうか?どうしてこんなに活き活きと愛情を表現できるのか。お二方に教えていただきたいと思います。

廬偉力:

まず演技については、実際にその立場にたったことがなくても良いと考えられています。例えば幽霊は誰もなったことがありません。また遊女や《人肉叉焼包》の殺人鬼などはもちろんないでしょう!だから必ずしも実体験がなくても良いのです。しかし何故あれだけ現実感を伴って演じられるか?真実感があるゆえに、あなたはそういった愛情を日常生活の中で再認識することになった。そして彼が、あなたの生活を変えるほどのレベルであったと気付かれたのでしょう。

哥哥は現実の生活の中で、深い愛情を知っていたのだと思います。それは父親から受けたのかもしれませんし、他の人からかもしれません。そしてその愛情を父親役に反映させた。演劇用語では「感覚の転移」と言います。もし知らなかったのなら、想像したのでしょう。想像して、自分の理解を通じて役柄の状況を“感覚的”に捉えたのだと思います。

いずれにせよ、ここから哥哥が理解と“感覚”を通じて演じていたのだと分ります。やたらめったら試していたのではなく、こうすればという“感覚”を持っていた。90年代半ば以降の演技には、気質俳優から性格俳優に変化する時ですが、見るべきものがたくさんあります。先ほど仰った《煙飛煙滅》の他《流星》。父親役を演じるというのも、変化の一つでしょうが、細部まで注目すると、こういった“感覚”が随所に見られます。外見だけでなく、内面にも芸術が感じられます。

前を向いて進もう

観客③:

羅監督に伺いますが、《カルマ》の撮影時に、哥哥がふさいでいる事はありましたか?あなたが会われた時で、ふさいでいる時は、どう言っていましたか?

羅志良:

《カルマ》の撮影時は、ふさいでいることはなかったと思います。《カルマ》の演技中にうつ病を患ったかどうかは、私は追及したくありません。申し上げたいのは昨年4月1日に付いてです。

昨年の4月1日は、まったく受け入れられませんでした。哥哥の友人として、私は彼が去ったという事実から逃げていました。耐えられなかったのです。最近の事ですが、撮影後にスタッフとカラオケに行きました。そして誰かが張國榮の歌を歌いました。ここで張國榮の姿を見ようとは思っていませんでした。昨年4月1日以降、彼の全ての作品を見られませんでしたから。彼の友人として、この気持ちが御理解頂けるかは分りません。その時張國榮の歌を人が歌うのを聞いて、私は泣きました。そして開放されたと感じたのです。彼が4月1日にいってしまったことを受け入れられた気がしました。スタッフが張國榮の歌を歌って楽しんでも、それは彼を忘れたとか、もう追悼の念もないというのではありません。しかし画面上で張國榮をみると、また別の気持ちになるようです。そしてどうやって4月1日に立向かうか教えられた気がしました。私は涙を拭いて立ち上がり、彼の歌を歌って、踊り、笑いました。哥哥を愛する人が全て、同じように出来れば、つまり前向きに生きて欲しいと思います。毎年花を手向けて彼を想うのは良いと思います。しかしにこやかに追悼して欲しいのです。そして張國榮自身もそれを望んでいると信じます。悲しみの中に留まらないでということです。スタッフが教えてくれましたが、張國榮の歌は楽しくしてくれますし、その歌を歌うと楽しくなれるのです。

「愛」より始まる。柔和と剛毅さをあわせもった存在。

盧偉力:

先ほど「哥哥の後期の役柄は全て議論を巻き起こし、また深さがあって重層的である。深部から彼の性格が役の造形に与えた影響を分析できないか?」との質問がありました。非常に良いご質問だと想います。俳優が自分の性格に基づいて役作りをするのは自然な事です。時には人の性格を参考にする事もあるでしょうが。

その中で先ほど申し上げた「愛」。彼の動作というのは「愛」の演技です。彼の作品を通じて愛の表現、愛の抑圧、愛の衝撃と激情などなど、それが彼の演技を彩っています。これは彼の性格の一つと言えるでしょう。

その他に彼の生命感覚と言いましょうか、ふんわりとした温かさが感じられます。これは世間で言うようなかっこよさではありません。彼は狄龍ではなく周潤發のような陽気さ剛毅さと言うものはありません。この感覚は雌雄同体、また「陰陽互いを制し、陰陽互いに協調す。」というところから来ると思います。彼は過度に繊細でもありませんが、極度に剛毅でもありません。陰柔と陽剛を持ち合わせて、ゆえに役は“潤い輝いている”のです。この“潤”は、映画上の色彩と言えるでしょう。先ほど性格をどのように役に生かしたかと言う質問がありました。これは悪役、正義漢の違いではありません。彼が演じると悪役でも“潤”があります。実際容貌も“潤”です。張國榮は陰陽を持ち合わせた存在だったと思います。

映画、歌各獎にファンの声を届けよう。

観客④:

羅監督、そして馮博士伺いたいのですが、皆さん哥哥はすばらしい俳優だと認めていらっしゃいます。であれば何故、常にノミネートだけで、獎はほとんど取れなかったのでしょうか?羅監督。業界人として、この不公平な状況をどう思われますか?馮博士。批評家としてどう思われますか?

観客⑤:

世界中でこれは同じだと思うのですが、失って初めて大切にし始めます。生前、哥哥の映画も番組も放送されることは非常に少なかったのです。しかし4月1日以降多くなり、新たなファンも出現しています。

私が伺いたいのは、ファンなら良く分る事です。張國榮は理性的、感情的に考えて最高です。しかし理性的に考えても、全ての獎とは言わなくても、香港もしくは台湾のメディアの傾向、金馬獎、金像獎など香港台湾の映画の高水準を決める獎で、どうして審査員が張國榮をないがしろにしたのか知りたいと思います。

観客⑥:

私は日本のファンです。90年代以前のアイドルレスリーはよく知りませんが、映画をみて、彼が好きになりました。日本では彼は偉大な俳優として知られています。日本のファンは広東語は分りませんが、彼のことをもっと知りたいと思っています。哥哥は以前「あなたたちは広東語が分らないのに。それとも分らないから僕が好きなの?」と言った事があります。

観客⑦:

羅監督、廬博士、本日は哥哥の映画の詳細な分析を聞かせていただき、ありがとうございました。私は中国から来たファンです。先ほどの問題に続けたいのですが、中国では哥哥の性傾向は忌避されるものです。哥哥について放送する時も安全な《流星》や《男たちの挽歌》などが選ばれ、議論の対象となる《君さえいれば》などは少ないです。一方香港では、哥哥の性傾向でもその他の事でも、一定の理解が得られています。それなのに何故、金像獎においては、今でもアンフェアな評論が聞かれるのでしょう?哥哥に対して、非常に不公平だと思います。少し前に日本のHPであるファンのメッセージを読みましたが、非常に感動的でした。ではどうして中国人は、自分たちの偉大な芸術家を大切にしないのでしょう?

受賞は俳優への最高の評価ではない

羅志良:

哥哥は《欲望の翼》で最優秀主演男優賞を取りました。その後も多数ノミネートされましたが、どうして取れなかったか?私個人の考えでは、獎というのはゲームなのです。獎取りばかりを重視されないほうがいいと思います。受賞出来れば嬉しいですが、獎を最高の評価とは考えないほうがいいと思います。

例えばオスカーの審査員は自分の基準を持っています。全ての獎が業界のみのゲームとは言えませんが、事実上はそうなのです。だから「公平であるか?」は聞かれないほうが良いと思います。公平はそれぞれの気持ちで決まると思います。金像獎が不公平とも言えません。審査員は毎年変りますし、彼らの好みも毎年変ります。これは止めようがありません。ゲームに参加すると、こういうことが起こりえるのです。金像獎には基準、ルールがありますし、カンヌにも、ベルリンにもあります。ベルリンは芸術性が高く、カンヌは娯楽性、アカデミー賞は政治的議論のある作品が多いですが。

哥哥が獎をどう見ていたか?「一度取った事がある」か、「更に取るために続ける」か?香港映画にもテーマや撮影方法でノミネートされえるものがある、これは世界に認められています。これは悪い事だとは思いません。この仕事を選んだとは、この道を行くことですから。もし “自分が楽しむために”や“良い作品を撮りたい”というなら、獎の事は考えられないほうが良いと思います。

社会が認める主流と非主流

盧偉力:

先ほど社会と民間で、張國榮に対する評価が異なるかという質問がありました。違いはあると思います。私も張國榮に対し不公平だと感じています。上海と北京で音楽番組プロデューサーと調査をしたのですが、昨年4月1日から現在までに、多くの音楽獎が香港・台湾を含めて、栄誉歌手を選出しています。今年はLeslieに与えられるべきだと思いましたが、大きなものは一つもありません。彼のファンとしては、納得しかねます。羅監督が仰った審査員の問題の他、私は社会の主流価値と関係があると思います。例えば私が張國榮に“中国栄誉・永遠栄誉歌手獎”を与えたとして、どういった反響があるか?審査員と話しましたが、彼らもこの点には関心を持っていました。社会が受け入れるか、それが審査団が受賞者を決定する基準の一つなのです。香港の事情は良く知りませんが、中国では重要な審議事項です。ですので、民間であれば多くの人が支持しているという非主流の声をあげなければ、与えられるべき獎も与えられない事があると思います。

観客の鑑賞センスの問題

盧偉力:

皆さんは《モーツァルトの死》という映画をご覧になりましたか?これはある宮廷楽師の話です。当時もてはやされ、富と名誉を手にしました。モーツァルトは困窮していました。しかしモーツァルトは多数の作品を残しています。彼は40代でなくなった早世の天才ですが、彼の作品は現在まで聞かれています。一方例の宮廷楽師の作品は彼の生前に、聞かれなくなりました。

問題は、まだ十分評価されていない張國榮の芸術的成果をいかに扱うかでしょう。中国では社会的禁忌かもしれない。では香港、台湾ではどうか?社会的禁忌でないなら、見る側の感覚の問題でしょう。つまり、より多くの人が彼の芸術特性を味わえるようにするにはどうしたら良いか?例えば、この検討会が始まりです。皆さんは時間をかけて追悼されてきたと思います。追悼は必要です。しかし追悼は一層に過ぎず、その上には彼の生命に、彼の芸術世界に入るという層があります。より多くの人に、張國榮の文化的、芸術的貢献を理解してもらうために、私たちの努力が必要でしょう。

作家俳優

観客⑧:

昨年、香港の文芸評論家林沛理氏の、哥哥は作家俳優だという文章を読みました。哥哥の映画では、彼がお話を語ってくれているように感じます。あのソフトな温かさと、男性の情感でもって。それは他の人の話なのですが、哥哥は上手に話して飽きさせません。先ほど廬博士は性格俳優と仰いましたが、私はむしろ作家俳優だと思うのですが?

「愛という哲学」

廬偉力:

性格俳優か、気質俳優か、作家俳優かと言う問題は、難しいですね。もし西欧で定義する「作家」なら、自分の哲学を作品に表現するものという事になります。劇作家や、監督ならまだ言い易いのですが、舞台でも美術なら分り易いですね。俳優については、はっきり言う事は難しいです。俳優には役柄によって制限がありますが、また全く可能性がないともいえないからです。例えば俳優によっては、どんな役をしても、ある特質が見え隠れします。これが気質俳優です。張國榮は「愛という哲学」を抱き、そのため彼は作家でありえます。そんな役でも、彼の背後にあるのは「愛」です。ですので、彼が作家俳優或は俳優作家であると言えると思います。